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戸山荘⑦眺望の臨遥亭、幻の修仙谷 [大久保・戸山ヶ原伝説]

rinyoutei_1.jpg 松のたくましげなるにうちまじはりて(打ち交わりて)、盛なるもいと見事にも覚えし。少し高き所にのぼらせ給ふ。これぞ「臨遥亭」(絵図中央上)と名づけ給ひ。この御床には菜の蝶の趙昌(北栄の花鳥画家)の筆にて花に遊べる風情なり。唐銅の花入杵の折と名づけられしに、大山連翹ゑびね(レンギョウエビネ。ラン科)を水際きよけに入玉ふ。二條為氏卿(鎌倉中期の和歌の二条家の祖)の古今和歌集、文鎮は唐銅の亀、書院の御床には釣香炉、金紫銅の鱗、硯は列星石、硯屏は寧波(硯屏=硯の傍に立てる塵除け衝立。寧波=中国の地名)、筆は堆朱(彫漆)、筆架唐銅龍、黒い丸形にて、被是ともに唐と大和の古き御調度とも目なれぬさまなんめり(~のようだ)。

rinyotei_1.jpg 御庭は清き芝原にて、むかふの方はおのづからくだり。右の方には四つ目にゆひたる竹垣(縦横四角に隙間を開けて編んだ竹垣)、其内外にやすらかなるさまざまの木立はてしもなくてぞ植つゞけられたり。君にも御目とまりし。彼原には木もなかりしか(なかったのでないか)。中央に老木の柏の梢は、丈(ぢぅう=約3m)にも過ましきか(ないか)。四方の枝は芝をはふて三丈あまりはひろこりて(広ごりて=広がって)、葉も広やかにあさみどりの色つやつやし。むかふの方を見やれば、名におふ目白関口(目白台、神田上水の関口)とやらん遠きちかきさまざまのけしき、若葉の茂りあひたるは、誠に目にも余りたるなんといふもおろかなるぞかし(言うもおろかなり=言い尽くせない)。けふの警固の御為とて、非常のいましめのかしこきに(警備の立派さだが)、往かふ人もなかりし。「修仙谷」を下り玉ふころ、もろこしの仙人集りてもろもろのあやしげなるすさみ(遊び事)などなしけるもかゝる所ならんかしと思ひやられ侍る。(『和田戸山御成記』(5)

anaomiru_1.jpg <享保20年の『戸山御庭記』(吉春「花見の宴」)では「望遥亭」からの眺めは穴八幡、目白台、小石川、さらに筑波山も見ゆると記されていた。そこで著者・久世舎善が詠んだのは「目も遥に民のかまどの長閑さを煙にしるき庭の数々」。そして「きり島山」(キリシマツツジが一帯を覆っていた)の先の天神山(錦明山)を望み、松に〝トキ〟という鳥の巣に居けるを見るとあった。当時はこの地に「トキ」が営巣していたとは驚いた>

 <「臨遥亭」は写真奥の靑色の建物=現・国立予防衛生研究所辺りだろう。今も北側の眺望が良さそうだが部外者は入れない。「尾侯戸山苑図」にそんな遠景が描かれていたのでアップする。平成元年に同所手前のmejirodaiomiru_1.jpg新宿区障害者福祉センター辺りの弥生時代集落・戸山遺跡調査で、そこに〝埋没谷〟があったことを確認。谷幅40m比高差6mと推定。戸山荘絵図には埋没谷=大谷(後に修仙谷)と説明。その周辺に「大谷御数寄屋(後に修谷御茶屋)」や「水神之宮」が建っていた。周囲は紅葉や赤松の大木が多く、夕景もすばらしかったとか。この谷は当初は池で、光友逝去の頃に涸れたらしい。また同地北東(早大敷地内)では縄文土器や江戸時代の地下室や陶磁器、土器が出土したらしい> ★芝生の庭は、平安時代からあったらしい。

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