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戸山荘⑨茯苓坂~和田戸明神~玉円峯へ [大久保・戸山ヶ原伝説]

bukuryuzaka.jpg_1.jpg 坂下門左に「琥珀橋」「茯苓坂(ぶくりょうざか)。右に「桜の茶屋」。こゝの御まふけ(設け)には、臨粽などいへる花入に、杜若(かきつばた)にはあらぬ同じゆかりの花の色も絶なるをぞ入給ふ。御床のかけし(掛軸)は柴野大心一行もの(一行に書いた墨蹟)。「黒木の茶屋」のかけ物は雀鼬の画。是は名におふ曽我蛇足(じゃそく。一休に画を教えた室町後期の画家)の筆也。中央の卓桑の木地なるに、唐銅鯉の香炉、仙台萩を青磁の陶にぞ入給ふ。御棚には香匙、火筋建(こじたて。灰を扱う火箸立て)、南蛮のたくみなる梨地の盃にぞ錺られたり。

bukuryozakasiseki_1.jpg 右りのかたの石段を登りて「和田戸明神」を祭り奉るいとたふとげ(尊げ)に覚ゆ。神主の住所とて板の掘有りて、少坂をのぼりていかにも数寄にかまへたる家あり。御床には釣瓶(つるべ)に燕の飛遊ぶさまをいかにも面白くぞ画たり。よのつねの英一蝶といへる筆はざれざれ(戯れ戯れ)しく貴けき御前に出べきさまならぬやうに覚しか。此御かけしのさまはさうなふ心ありげに恥じからぬも御宝のゆへなるべしと、ひとり感じぬ。

 <英一蝶は江戸中期の画家。三宅島に流罪。大赦で12年ぶりに江戸へ戻って、さらなる人気絵師へ。小生は高輪・承輪寺の墓を掃苔済。〝ざれざれしい絵〟を一蝶が聞けば〝てぇやんでぇ、江戸っ子の粋が田舎侍にわかるもんかぇ〟と言うかもしれない>

 さて後のかたに引かくしたる御ま(間)にて、焼飯にしめもの(煮しめ物)など取揃へせり。色片木といふものに盛てぞありける。是は我等ごときよりも末のもの迄の御恵なりとて、人々つどゐて忍びかほしてたうべ(頂戴した)。御茶たまへ水給へととよみあひて(大声で騒ぎあって)興じぬ。しばしば御供の事も忘るゝ計りたのしみあへるさま、おのづから御心にもかなひまいらせしやらん(叶うことも忘れてしまった)。

hakoneyama_1.jpg 此あたりは町両側につづきて、家々に茶椀棚釜なんとへつゝい(竃)に懸置たり。そのさまよの常ならぞに、木瓜の形、又口のさし出たる。また口の小きさまざまの古きにぬるひたるなと殊勝かなり。茶道すきの人々はあなめづらし。かゝるたふときものを此さまにあまたありけなるをぞ感じあへる。

 <小寺著『江戸の春』では~ 坂下門を入ると坂の左右に町屋(擬似街並み)風あり。右の「黒木之茶屋」床の間に曽我蛇足の画、その先に「二之御茶屋」「三之御茶屋」(柴野の一行もの軸)、「四之お茶屋」(臨粽の花筒にあやめ)。左側に「桜之お茶屋」、その隣に釣竿などを売る茶屋。その先に「和田戸大明神」の鳥居。社は高い石段の上に祀られ、鳥居の脇に神主の家。床の間に英一蝶の画。この家の奥に焼飯などが用意されていた>

 「達磨堂」を過ぎ給ひて「玉円峰」に登り給ぬ。さゞゐ(栄螺)の状につくりて、高きことは凡五丈斗(15mばかり)もあんあるに、うちのぼらせ給ふ。むかしは見渡されしがたもあらんに、今は老樹雲をしのぐ計なれば、近きあたりは見へざりけり。晴やかならん折からには、遠境のけしきさぞと思ひられ侍りぬ。『和田戸山御成記』(7)

 <丸ヶ獄~玉円峰、そして今は箱根山。その周囲も高く標高は44.6m。都内一の山。★昔を知る方に聞くと「隅田川の花火の時は、箱根山頂上は人がいっぱいになった。よく見えたんだよ。反対側を向けば山の手線が馬場~目白と見えた」。『尾州公戸山御庭記』に、男女15歳以上の者に給金を払い、御泉水を掘らせ、その土を運ばせてこの御山が出来たと書かれている。絵巻『尾侯戸山苑図』の絵と現写真(茯苓坂の史柱あり)。その上の平らな所に「達磨堂」があったのかしら。茶屋が並び「和田戸明神」があったのは、現・箱根山トイレ辺りから手前の広場辺りだろうか>

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