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戸山荘⑩大日本帝国の痕跡 [大久保・戸山ヶ原伝説]

toyamagako_1.jpg 尾張藩下屋敷戸山荘の地には「大日本帝国」時代の痕跡が幾つか遺されている。箱根山の麓に「戸山荘」史跡看板があり、その一段下がった所に「箱根山陸軍戸山学校址」の石碑も建っている。立ち止まって読む機会も稀ゆえ、ここに全文を写しておく(読み易く句読点をつける)

 この地は和田戸という武士の館の跡で、源為朝が源氏の勢ぞろいをした所と伝えられ、後代、和田戸山と呼ばれた寛文年間、尾張徳川候の下屋敷となり殿堂宮祠等かずかずの建物と箱根山を中心とし、東海道五十三次に擬した風雅な庭園が造成された。明治六年、その地に兵学寮戸山出張所が設けられ、翌七年陸軍戸山学校と改称されて以来、約七十年にわたって軍事の研究教育が行なわれ、国軍精神の基を培ったばかりではなく、国民の体育武道射撃音楽の向上に幾多の寄与をした記念すべき地である。この度、東京都がこの地に緑の公園を整備されるにあたって、この記念碑を建てて東京都に贈る。昭和四十二年十一月 元陸軍戸山学校縁故有志一同

syoukoukaigijyo_1.jpg 戦後の民主主義教育で育った小生には、いかにも「大日本帝国・陸軍」らしい碑文と感じられるも、日本の歴史として無視するは避けられない。その暗部をも抱えているのが日本人でもある。

 「新宿区平和マップ」に区内の戦争に関する史跡が紹介されて、戸山荘該当地の史跡も写真付きで掲載。そこに「(国立感染症研究所内)納骨施設」もあった。そこは戸山荘の「臨遥亭」があった地だろう。同マップから説明文を写す。

 「平成元年7月、国立感染症研究所の建設工事中に、土中から少なくとも62体の人骨が発見され、その供養のため石碑が建てられました。この一帯には、敗戦まで陸軍軍医学校があり、鑑定の結果、陸軍軍医学校の標本などに由来する人々のものである可能性が高いと判断されました。その後、厚生労働省ではこれら遺骨を保管することとし、平成14年3月に(研究所敷地内に)納骨保管施設が完成しました。」

gungakudou_1.jpg 同パンフレットには他に「陸軍の将校会議室跡」(現在は私立戸山幼稚園の園舎として利用)、「軍楽隊野外音楽堂跡」、学習院女子大内の「近衛騎兵連隊之跡碑・近衛騎兵連隊宿舎・炊事場跡」などが紹介されていた。

 またかつての国立病院戸山5号官舎の下にも、当時の証言で陸軍軍医学校の標本人骨が埋められているとされ、2010年に同官舎解体後に発掘調査が行われたらしいが、その結果報はどうだったのだろうか。同地はいまは更地にのまま。明治通りを挟んだ反対側の戸山公園(大久保地区)は〝戸山ヶ原〟と称された練兵場(射撃など)などがあった。そこに忍び込んでゴルフに興じたのが大正時代の〝戸山アパッチゴルファー〟(当時の新聞記事を弊ブログでも紹介)。また多くの文人が散策記、多くの画家がスケッチも残している。次回『和田戸山御成記』に戻る。

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