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戸山荘⑪御殿続きの「餘慶堂」 [大久保・戸山ヶ原伝説]

yokeidou_1.jpg 峯を下りてかたわらの細道をしばし過給ひぬほどに、左りのかたに御鞠の御かゝりの跡とて、礎のうちにはいまも砂を敷わたして、かゝりの木と覚しくて、相生乃松(赤松・黒松が一つ根から生えたように見える松)あり。幾世経にけん(けむ=だったのだろう)しるしにや、三人ばかりにてもいだき(抱き)つべくもやあらん(出来るだろうが出来なかった)。高き木ずえはみどりもふかく、いや(きわめて)生に栄へたり。其いにしへは御垣の内にかゞまりたらんさまぞおもひやられて、誠に目出度木にぞありけし(あったようだ)。

yokeizenzu.jpg <それは何処?と資料を探すもわからず。ようやく「戸山御屋敷絵図」(下の図)で御殿西側に「御鞠場」「御土蔵」「石段御門」を見つけた。蹴鞠の御懸(かかり=蹴鞠を行う場)。木を四隅に植えた約15㎡の場で行われる。小寺著『戸山の春』では~ 玉円峰を下ってさらに進むと「御鞠場」の跡。内に砂が敷かれ、かつての懸り木と思われる相生の老松が一本(昔は四隅に四本あった)とあり>

 石段門を入ては、石を敷置たり。四角もあり、三角にこしらへしも有。さまざまの状の石もて(以て)、雨にも道わづらひながらん(煩ひ長らん)為とぞおぼゆ。左の方に御宝蔵とて棟高からぬに扉三所迄ありて、さながらくろがね(鉄)などにて造りたるやうに。きらきらしく見侍り奉りし。すべて此門の内はよ所にはばかりて(際立った)石とも多く、木も色々に造りなせれ、きりしまつづじの紅(くれな)ひ又たとふべきものなし。かしこ(彼処)には龍宮より得たるよしの鐘あり。色はみどりにして、かねのかたちはゑもいはれぬほどにねぢけ古めかしく、穴など幾つもありて、龍頭などいへるものもよの常にはあらで(なくて)、さも珍しき御宝にこそあんなれ。あらあらしき木もて造りたる柱にぞ懸られし。こゝかしこ御覧終りて、ひときはうず高き餘慶堂にいたり給ふ。

omariba_1.jpg <「石段御門」を入ると四角や三角などさまざまな形の飛び石が敷かれ、左に宝蔵殿があり、餘慶堂前に吊られた鐘。これは尾張の海で漁夫が網にかけた古墳時代の銅鐸らしい>

 さて此殿は大屋造にして、あけ蔀(しとみ=雨戸のようなもの。それが開けられて)御簾(みす=すだれ)かけの具などまふけさせ給ひて、雲の上の御よそほひをぞまふけ(設け)させ給ふ。其御床の三福対は、狩野法眼養川惟信(狩野これのぶ。木挽町の狩野派7代目。29歳で法眼の称号。号が養川)にあらためゑがゝしめ(改め描かしめ)給ひし福禄壽山水(七福神の一つが描かれた山水画)、祝ひにひにてこまやかにいさぎよきぞめでたし。砂もの(生け花の古典様式の一つ、砂鉢に木の株を立てたもの)とていかにも広やかなる御器に、松いぶき(伊吹:ビャクシン属の常緑高木)柘榴躑躅に手まり(紫陽花?)。牡丹、きぼうし(擬宝珠)、無儘草(シュンギク)、いちはつ(アヤメ科)なんとにて、さも活き活きとたて造らしめ給ふ。御二の間の御床には雪舟筆、これも山水をえがきたるにてぞありし。思ひのまゝに書なしたるやうにて、とどこふれる事少しもなく、やすらに妙なる事を感じぬるも愚なり。『和田戸山御成記』(8)

 <絵巻は餘慶堂。上が「尾候戸山苑図」。下が「尾張公戸山庭園」より。地図は宝暦頃「戸山御屋敷絵図」の蹴鞠場>

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