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戸山荘⑫餘慶堂の描写 [大久保・戸山ヶ原伝説]

yokeidouezu_1.jpg 中央卓、紅地唐銅獅子の香炉。うしろの御間の御床には越雪湖の梅。右卓、朱からがね(唐銅)驢馬香炉。御湯殿のかたはらの御床には林和靖、李太白(共に中国詩人・文人の詩世界を描いた)探幽(狩野)筆にて一きわ見事なりし。御湯の御まふけし給ふ御ものはあらたに造らし給ひし名だゝる木曾山路の檜杉もて造らせ給ひたるしるしにや、匂ひも常ならず、なべてのいさぎよきことゝも申ばかりもなく、いちじるかりし(かりし=詠嘆)。

 偖(さて)此殿より廊二すじあり。越行て見るに、かぎりもしられぬほどの大御屋造(大書院造)にて、けつかう(結構)なることどもの数々ありて、案内なく入ては帰るさ(帰り道)わきまふべくもなかりきに。御障子御畳など一ツとして古きはなく、みな新に造らしめ給ひしか。うやまはせ給ふのかぎり尽されし御事のとうとさと覚え侍り。

yokeidousirusi.jpgyokeidousya_1.jpg 監の間宮氏御しりえ(後方)のとのに侍りしか、しわぶき(咳)からましけなるもおかし。この殿計にもあらぬか(?)。御手水の御調度御臺子(茶道具一式をのせる棚)なんと、きらきらしくあらたにまふけ給ひし。御庭のさまは大石の数々ねしけかゞまり。又石の工(たく)み手を尽したるなんと取合て、見所多かる限りあつめ尽されし。其ひまひまにはこまやかなる石をもて土は見へぬまで敷ならしたるも見物也。

 餘慶堂の御額は明人の筆。さも殊勝げに懸られし。御庭のさま、向ふの方には大樹かぎりもなくgotenatari1_1.jpg植つづけて、遠山のごとくなるを、一きは(一際=一段と)筥(はこ)などのやうに切平(ひら)めさせて、五重の塔はるばると見へける。何れの伽藍にやと思るゝに、是も此御庭の内にてまふけ(設け)させ給ひしと聞へて、おどろき感じあへり(しっかり感じた)。又左の方に是も梢を平めしめて馬場の埒(柵)などのやうに切ぬきしさま。何のためにかはと見るに、富士の高嶺白々とぞ見へける。裾野のかたはひたすらに見へもやらで、青葉計つゞけたるけしきいはんかたなくぞ(何とも言いようがなく結構)覚へし。

 木は松楓ぞ多かる。よのつねの森林には下草まだらなるか。此御庭にかぎりて下草のみどり深く、蛮国の羅紗なんといへる布を敷たるやうにぞ見渡されし。又きびたき(キビタキ)などいふ小鳥の所悪かふに(交ふに)飛めぐり、おかしきさましてさへずり。けふの御もてなしかふなるも又情ありてぞみえし。『和田戸山御成記』(9)

kigitaki.jpg.jpg <餘慶堂の旧称は「富士見御殿」。林の上部を平らに刈って緑の額縁「木の間の富士」。江戸百富士の一つとか。御殿も餘慶堂も安政6年の大火で焼失。餘慶堂はどこに建っていたか。まず戸山荘全図から確認。「御殿」の西側に張り出ているのが「餘慶堂」。その場所は、写真の丸印に「餘慶堂跡」の史柱が建っている(史柱の左向こうが11号棟・生涯学習館で、背が9号棟)。写真下の広場と10号棟辺りの奥に「御殿」が建っていたのだろう。おまけの鳥写真は小生が昔に葛西臨海公園で撮ったキビタキ> 

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