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戸山荘⑬称徳場~彩雲塘~弁天島 [大久保・戸山ヶ原伝説]

babakatabenten_1_1.jpg 左の方の「紫竹門」(余慶堂内庭からの出口)を出させ給ひて、林のうちを過給ひける。ちいさき橋のあまたありけるが、皆新に造らしめて人の踏そめし(染し)跡だに一ツもなかりし。ふみならずまじとのおほせことありて、御供の人々もよきて(避きて)そ通りし。「称徳場(馬場)」といへる所を過て「彩雲塘」(弁天社に至る道)と名づけられしは、猿すべり(百日紅)という木の大きなるかきもとゝいふべbenten_1.jpgき、かぎりもなく左右に広がりて、枝は地をほふて、梢は雲に立のぼり。右りの方は、池の汀になびき、左の方は広き田面に枝さしおほひ、百日の盛に雲をも染なずべき名も思ひやられし。こまやかなり枝茂りあひて、もろこしの画などにみへしさまなるも、年ふりし(年古りし=歳月が経過している)御事の御いつくしみ絶せぬしるしなんめり(なめり=~であるようだ)と、心おどろかぬはなかりしか(ないのではないか)。

 「弁天島」は細道をつたひて、あけ(朱・赤)にぬりたるから橋(唐橋=中国風欄干の橋)をふむもおそれみ、ふるひふるひ(震い震い)わたるもあり。又けがし(穢し)奉る事なんはばかりて、ふし(伏し)拝みて通るもありき。宮居(神社)とふとけき御よそをひにして、宮めぐりするあたりも皆同じ。花の木ばかりぞ茂りあひける。そもそも此弁才天と申奉るは、ゆへある御事とて扉開き奉らぬならはしにとて、扉開き奉らんとせし時さはひなし(障なし)給んやなとの御事申も愚なるべし。『和田戸山御成記』(10)

bentenkoeki_1.jpgbentenjimaatari_1.jpg <戸山荘全図より「称徳場~彩雲搪~弁天島」部分をアップし、「尾張公戸山庭園」より「弁天島」部分をアップした。弁天堂はいわれがあって扉を開かぬことになっていたそうな。赤い唐橋の右の小橋から百日紅の「彩雲塘」が続いている。では「弁天島」はどこにあったか。おそらく現20号棟5階から俯瞰した桜の小広場辺りだろう。正面25号棟の右奥と26号棟左の間に見える木の茂み下に「古驛楼跡」(戸山荘を代表的する小田原宿を擬した37軒の街並の本陣=古驛楼)史柱が建っている。

 写真下右の桜の奥は19号棟~箱根山。19号棟は「平屋の戸山ハイツ」時代は、陸軍戸山学校時代の50m程のプールが残っていて、同棟を建てる際にプールを壊しての基礎造りゆえ建築業者が苦労していた。また広場辺りは更地で、後に桜が植えられた~と当時を知る友人が語ってくれた。同写真右端の20号棟手前辺りに百日紅の道「彩雲搪」があったのだろう。そこで箱根山に向かって立ち、両手を広げる。右手先に「称徳場」、足元に「彩雲塘」、眼の前に「弁天島」、左手先が「古驛楼」。現風景から陸軍戸山学校時代をも透かして、江戸時代の戸山荘の風景が浮かんでくる。

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