SSブログ

内調(2)松本清張が危惧した謀略的活動 [政経お勉強]

seicyonigao.jpg.jpg 「内調」の実態は闇。その闇に松本清張が昭和36年(1961)に小説『深層海流』で挑んでいた。登場人物は仮名で「内調」誕生経緯、当初の諸事件をM資金、政財界の派閥争いがらみで詳細紹介。そして4年後の『内閣官僚論』最終章が『内閣調査室論』。こちらは実名で論じていた。その概要をまとめてみる。

 「内閣調査室」は、講和条約発効寸前の昭和27年に、GHQが去るのに備え、世界の共産圏、国内の共産党や労働組合などの脅威阻止のために誕生。(小生注:昭和25年、朝鮮戦争勃発。マッカーサーが吉田首相に警察予備隊の設置、海上保安庁8千人増員指令。併せてレッドパージ開始。2年後に警察予備隊が保安隊へ。29年に自衛隊へ。吉田茂は麻生太郎の祖父)

 当初の目標は「日本のCIA」だったが、その組織を見て新聞各紙が「戦前の内閣情報局(注:戦争に向けた世論形成、思想取締りの情報機関)だ」と激しく非難。結果、名称も「内閣官房内閣調査室」。(注:発足の昭和27年4月9日「もく星号」撃墜。12日に破防法反対で107万人デモ。5月1日に「血のメーデー」)

seicyosituron_1.jpg 「内調」発案は村井順(警察官僚~吉田首相秘書~初代室長)。その案に強く共感したのが副総理で官房長官・緒方竹虎。やがて吉田と緒方が対立。各省出向で構成された「内調」内も諍い続き。「内調」設立の翌年に村井室長が外遊すると、新聞が「村井はボン到着時から英国情報員にマークされ、ロンドンでは腹巻の闇ドル(M資金)が関税で没収された」と報道。これまた内部抗争で外務省のフェイク。2代目室長・木村行蔵は、各省役人同士の抗争をいさめ「和」を説いた。

 3代目室長・古屋亨時代には、「内調」防衛班長・肘付が部下Iの辞職願を勝手に提出した「肘付事件」。昭和29年には駐日ソ連大使代表部の2等書記官が米国側へ逃亡。関わった「内調」の軍人2人、外務省出向役人が調べられ、地検調べ中に外務省・日暮氏が窓から飛び降り自殺。さらに鳩山首相がソ連と国交回復するキッカケになったドムニツキー親書について怪文書が出回った。その出所も防衛班長・肘付とか。かく「内調」の足腰定まらず。

 4代室長・石岡実の時代に★1部(国内情報)治安担当、文化担当、経済担当、労働担当。★2部(海外情報)朝鮮、中共、東南アジア、ソ連・東欧、軍事、資料。★3部(マスコミ論調)★4部(資料・通信関係)。★5部(研究、民主主義研究等)。★6部(情報判断会議)の体制へ。

 この頃から民間団体への情報依託が増加した。これは「内調」定員67名+各省からの出向の内閣幹部約30名でスタッフ不足によるもの。昭和36年の衆議院予算委員会で古屋室長が依託団体名・予算を公開。ここでは全文引用省略するが同年調査委託費=3億6600万円ほど。39年度の調査委託費は約4億6000万円。

 『内閣調査室秘録』の編者・岸氏は松本清張『「深層海流」の意図』より「情報の蒐集は国策に必要だろうが、そこを逸脱して謀略性を帯びたら見逃すわけにいかない」の清張記述を太Gで強調していた。「モリカケ問題」の元文部科学事務次官・前川喜平氏の「出会い系バー通い」リークなどは明らかに謀略的活動だろう。そうなれば、あの事件この事件で「内調」がどう動いていたかも気になってくる。

 次に先日7月19日発売の『内閣調査室秘録』(設立当初のメンバー・志垣民郎氏の日記など)を読んでみる。カットは以前に描いた松本清張似顔絵(続く)。

コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。