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内調(3)進歩的文化人攻撃と藤原弘達 [政経お勉強]

sigakicyo_1.jpg 映画「新聞記者」の影響か、「内調」関連書2冊が相次ぎ出版されている。まず7月19日刊の岸俊光・編/志垣民郎・著『内閣調査室秘録~戦後思想を動かした男~』(文春新書)を読む。

 著者は97歳。氏の妹の息子が俳優・志垣太郎氏。昭和27年発足の「内閣調査室」初期メンバーで、昭和53年(1978)まで「内調」一筋。その創成期秘話をはじめ、長年の活動の回顧録を公開。なお退官後は「内調の情報依託先」だった企業の社長や会長職。ちなみに初代室長・村井順は総合警備保障(ALSOK)を創業。

 さて「内調」発足当初は、外務省から出向の曽根氏の案で、自民党最左翼・宇都宮徳間氏をはじめ、右派左派の狭間の国会議員に金銭支援で抱き込んだ。また戦前に「軍国主義」も、戦後に「民主主義」論陣を張る「進歩的文化人」を批判すべく、彼らの今昔の言説の違いを時事月刊誌「全貌」に連載。槍玉に挙げた例が、戦前にヒットラー礼賛の清水幾太郎をはじめ、30名を俎上に載せた。これを一冊にまとめて『学者先生戦前戦後言質集』を刊。再版の際にはさらに10数名を追加補足。全員の実名を挙げ、これらは自分が執筆した。また日教組批判も書いたと告白していた。

 松本清張が記した初代・村井室長の「腹巻事件(3千ドル摘発)」は、昭和28年(1953)9月の産業経済新聞三面トップ記事になった。この〝大捏造記事〟を仕込んだのも前述・曽根氏。書かされた記者は後に左遷。こうアッサリと告白されて、清張さんはあの世で頭を抱えているだろう。

 村井順は、これら外務省の反抗や、緒方竹虎の副総理昇格後の後任官房長官とうまく行かずで左遷された。2代目室長・木村行蔵は可も不可もなし。3代室長・古屋亨が清張も紹介通り「内調」を6部体制にして礎が固まったと紹介。

 志垣氏は前述紹介の★3部(マスコミ論調)★5部(民主主義研究など)★6部(情報判断会議)などを担当。進歩的文化人への攻撃に加え、「内調協力者」の人脈を拡大。その一つ「土曜会」メンバーに「月々4万5千円」の支援(昭和27年頃の国家公務員初任給7千6500円)。その後も学者らに研究費を渡してのシンパ育成を続けて来たと告白。

 その代表例が藤原弘達氏。彼が左翼理論家になるのを恐れて抱き込んだ。昭和30~54年(1955~1979)の酒席接待日・店名を克明に記録(公開)。結果、彼は後にテレビ「時事放談」「グリーン放談」などで保守的政治評論家として大活躍。創価学会や公明党も厳しく批判した。

 小生20代半頃だろうか、テレビで「口角泡を飛ばす酒飲みらしき藤原弘達」をよく観た記憶がある。今になって「あぁ、裏にそんなことがあったのか」です。今もそんな人が居るのかも知れぬが、隠し事は後世に誰かの日記公開などでバレたりするかも~。次回へ続く。

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