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堀田善衛『定家明月記私抄』を読む前に(1) [鶉衣・方丈記他]

meigetuki1_1.jpg 藤原定家については、7月のブログ「日本語」で山口誠司著『てんてん』、小池清治著『日本語はいかにつくられたか?』の第三章<日本語の「仮名遣い」の創始・藤原定家>を参考に紹介したばかり。

 改めて定家経歴概要。和歌の家・御子左家(みこひだりけ)当主・俊成の息子。俊成が後鳥羽院に『新古今和歌集』撰を命じられ定家も参加。その後『新勅撰和歌集』『小倉百人一首』なども撰。『方丈記』の鴨長明(7歳年長)とほぼ同世代。つまり戦乱・大火・地震・大飢餓・遷都・源平合戦などの激動期を生きたが「吾関せず」で和歌、文献書写に専念。生涯書写は仏典19種、記録類9種、『源氏物語』など物語や日記5種、歌関係30種。56年に及ぶ日記『明月記』を残し、歳時記をもって日本人の季節感形成にも寄与した。

 59歳で後鳥羽院の逆鱗に触れて閉門。宮廷保護なしも膨大書写資料をもって御子左家を興す。『定家仮名遣』を考案。「を・お」「え・ゑ・へ」「い・ゐ・ひ」の遣い分けで、平仮名の誤読誤解を防いだ「和漢混交文」を普及。

 当時は娘を天皇に嫁がせて天皇外戚で要職独占の「摂関政治」。清和天皇の子を産んだ女性25名。嵯峨天皇の子を産んだ女性25名で子が50名。後白河法皇は有名な春画絵巻『小柴垣草子』を作り、後鳥羽院の女性は数知れず。そんな時代に、定家はどう生きたか。

 上記を踏まえ、堀田善衛『定家明月記私抄』を読む。著者はまず青年期に同窓生らの戦死報が耳に満ちて覚悟が迫られる状況下で、『明月記』の「世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」(関東武士による源氏追討の風聞が耳にうるさい程だが吾関せず)に愕然とする。

 召集されて死ぬ前にと古書屋を脅すように同3巻を入手。だが晦渋な漢文に四苦八苦。結局は今川文雄著『訓読明月記』(昭和54年刊、全6巻)はじめの研究書を頼りに、定家19~48歳までの日記を、昭和61年〈1986)53歳で刊。

 著者は定家35歳の <雲さえて峯の初雪ふりぬれば有明のほかに月ぞ残れる> を微細に異なる白色の組み合わせ。音もなく始めも終わりもない音楽。静的な絵画美。動くともなく動き、宙に静止でもなく浮くでもない有明が全的に表出される希有な美が創造されていると記す。

 これほど高踏な域に達した文化は西洋にない。だが、それがどうだと言えば、そこに意味も思想も皆無で虚無が残る。それが何なのかを探って行きたいと記して、二流貴族の職業歌人の日記を読み始める。さて何回シリーズの小生抄になるか。

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