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『定家明月記私抄』(小生抄2)天災・飢餓の明月 [鶉衣・方丈記他]

meigetuhisseki.jpg_1.jpg 治承4年(1180、福原遷都)定家19歳より『明月記』を書き出す。最初の2年は記事疎ら。70歳前後に書き直した部分あり。著者は、当時の日記は「儀礼事典」記録的要素ありで、手を加えたのだろうと推測。

 「2月14日。天晴ル。明月片雲無シ。庭梅盛ンニ開ク。(夜遅く寝所に入るも眠れず、再び梅を見る間に)忽チ炎上ノ由ヲ聞ク。乾ノ方ト云々。太(はなは)ダ近シ。須臾(一瞬)ノ間、風忽チ起リ、火北ノ少将ノ家ニ付ク」 あっさりした記述だが、同火事で俊成一家も焼け出された。

 そして「9月15日。夜ニ入リ、明月蒼然。故郷寂トシテ馬車ノ声ヲ聞カズ」 故郷(福原遷都後の京都)が寂しいと記している。火災や遷都なる大事件にも無関心を装い、それより〝明月の美〟を記す定家。これすなわち二流貴族の定家を含めた朝廷官僚の態度。彼らの歴史認識欠如の表れ。これに比す鴨長明『方丈記』の正確な観察報告的記述を紹介する。

 定家の同日夜の記述「天中光ル物アリ。其ノ勢、鞠ノ程カ。其ノ色燃火ノ如シ~」(流星群でもあったか)に、著者は「B29焼夷弾爆弾」を想い、若き定家と同じく乱世(時代が一挙に落ちて行く)に生きることの共感を抱くとも記している。

 治承5年(養和元年)1月。20歳の定家は「三条前斎院ニ参ズ」。つまり後白河天皇の三女で、高倉上皇の姉。推定30歳の女流歌人・式子(のりこ)内親王に参じると記している。この二人の関係が、後に能謡曲『定家』(定家の蔦が内親王の墓に絡みつく。身動きとれぬ苦しみと、抱き絡められる官能の悦びを歌う)になる。

 同4月、養和大飢饉。その最中に定家『初学百首』を発表。その中の一首「天の原おもへばかはる色もなし秋こそ月のひかりなりけれ」。京には死臭が満ちていたはずだが、彼が詠うのは相変わらずの月。著者は「これはもう現実放棄でも芸術至上主義でもなく、芸術至上そのもの。その〝冷と静〟は一級品の格を有した高踏歌。悲惨のなかで、彼の歌どもだけが錐のように突き立っているように見える」と書いている。

 文治元年(1185)、定家24歳。壇の浦の合戦、平家滅亡。殿上で何があったか、定家は少将源雅行(6歳下も位は上)を殴打して除籍。翌春に除籍を解かれるも、彼が我慢のできぬ性格を伺わせると記す。また同年春に藤原(九条)兼実が摂政へ。それについては、すでに記した。天皇に娘を嫁がせ、天皇外戚となって要職を独占の政治。

 著者は土御門(つちみかど)天皇11歳に、藤原頼実の娘・21歳麗子を嫁がせ、順徳天皇13歳に良経の娘18歳の立子を、小生調べで後鳥羽天皇の元服10歳に、藤原兼実の子・任子23歳が女御~中宮など、天皇の子を産み競べ合戦の呈を紹介。幼い天皇が、かくも性交に励むことができようかの疑問に「それは概ね乳母が性教育、よって乳母が天皇の子を産む例もままあり」と説明。そして定家の父・俊成の妻子、定家の妻子についても言及する。 写真は国会図書館デジタルコレクション「藤原定家卿書跡集」より。まさに晦渋なる漢文。

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