SSブログ

『定家明月記私抄』(小生抄4)高慢・偏屈な定家 [鶉衣・方丈記他]

tosinari_1.jpg 建仁元年(1201)40歳、秋に熊野御幸に同行。11月『新古今集』撰進の命。定家には〝新古今集風歌体〟を完成させた画期的な年。著者・堀田は当時の作「白砂の袖の別れに露落ちて身にしむ色の秋風ぞ吹く」を挙げて、これぞ感覚浮遊の極点と評す。浮遊ながら金属的冷たさをも併せ持ち、今にも気化蒸発するかの洗練された完成度。フランス象徴派も遥かに及ばないと記す。

 だが著者は、定家に倦怠感ありと指摘。その理由は「古歌の本歌取りが、ある水準に達せば〝自動運動化〟するのも歌の達人の域。やむを得ないだろう」と分析。そうなれば逆に現実も見えてくる。自身の困窮と官位昇進の不満。その不平が通じたか、建仁2年に念願の左近衛中将へ。息子3人も叙爵。冷泉に新邸も建った。

 著者は翌・建仁3年の花見の逸話を紹介する。定家日記に「南殿(紫宸殿)ノ簀子ニ座シテ和歌一首ヲ講ズ。狂女等、謬歌ヲ擲(な)ゲ入ル~」。しかし家長日記を現代文で紹介すれば「気品ありげな女房たちも花見をしていて、われわれが和歌所の連中と認めて、あっちこっちから歌などを持ってきた」。定家は専門歌人ではない女房らを〝狂女〟とし、その歌を謬歌(びゅうか、下手な歌)を擲(な)入る」で、定家の人格が伺えると記していた。

 また上機嫌での車の帰路、仲間(鴨長明を含めて)らが篳篥(ひちりき)や横笛を吹くなど学の音を高らかに興じるも、定家だけが「フン、歌は遊びじゃねぇ」とばかりの堪え難き顔をしていたのではないかと想像し、ゆえに後に後鳥羽院が彼を「左右なき物(頑固者)」と記すことになる。

 同年末、後鳥羽院が父・俊成90歳の賀宴を和歌所で開催。同年は京で二条殿、京極殿などが放火され、貴族らへの殺人強盗も多発。そんな中での筆端に尽くし難き賀宴は「現実放棄の文学の祝祭」で、一つの文化文明がデカダンスに陥った所以だろうと分析。

 元久元年〈1204)43歳。クソ真面目な定家ならぬ日記記述があると著者は笑う。後鳥羽院が得王(院の男色相手)が自分の女房を犯したゆえに追放~の記述。それにしても後鳥羽院には何人の女がいたか。皇后1、后2、夫人3、嬪(天皇の寝所に持する女官)4、女御(中宮の次の位)、更衣(女後の次の位)、遊女、舞女、白拍子~と数え切れぬほどいて、さらに男色もあり。天皇の性行為は皇嗣を得る公事行為も、男色は趣味風俗だろうと面白がって記している。

 また「承久記」には、後鳥羽院の「いやしき身に御肩を並べ、御膝を組ましまして~」の卑猥な様が記されているとか。当時の貴族らの性は「平家没落で、それまでの文化基盤の一つだった女性の〝財産相続権〟が空洞化し、女が男を待つ恋愛や性が崩壊されてきた」ゆえと説明。

 7月、前将軍頼家が23歳で惨殺される。幕府体制も不安定で、政子と北条氏が奮闘中。11月、定家父・俊成91歳で没。定家の日記は漢文だが、父の「雪が食べたい」を叶え、父の悦ぶ言葉が和文(漢字仮名交じり文)になっていて、漢文の限界だろうと注目。

 カットは『小倉百人一首』(国会図書館デジタルより)の俊成の歌「世中よ道こそなけれ思日(ひ)入(る)山乃屋にも鹿そ鳴(く)那(な)る」。俊成が佐藤義清(西行)が出家したと聞いて詠んだ歌。世の中には逃れる道がない。山奥に逃げても鹿が悲し気に鳴いているよ。そう詠んだがドッコイ。堀田は西行は政僧・黒幕的人物と評していた。

コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。