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『定家明月記私抄』(小生抄5)「新古今集」の切継 [鶉衣・方丈記他]

gotobain_1.jpg 元久2年(1205)、定家44歳。『新古今集』撰4年目。7月から和歌所で撰歌部類始め・切継(取捨)が、院の「毎日参スベシ」で開始。翌3月末、清書未完成ながら焦れた後鳥羽院が倉卒(そうそつ、突然)に『新古今集・竟宴(きょうえん、編纂が終わった祝宴)」を盛大に開催。定家は頑として出席せず。

 案の定、「切継」は11年余も続く。『新古今集』撰進命から15年後の健保4年(1216)に完。(その後も後鳥羽院は隠岐流刑地で『隠岐本古今集』を自撰)。著者は「ここまで突き詰められた抽象美形成の詞華集は、世界文学のなかでも唯一無二」と評す。

 一方、定家の生活面では、5月に南隣の家へ強盗。東隣では犬の喧嘩から刃傷沙汰。京都守護の誅殺事件。物騒な世情。翌・建永元年(1206)、和歌所筆頭の九条良経が38歳で急死。定家は自分が「歌学の家」を確立と決意。だがそれも後鳥羽院次第。

 後鳥羽院は遊戯三昧も、『新古今集』の約2千首を暗記しているほどで、歌会も主催。だが世は歌会に並行して「連歌の会」が活発化。和歌が頂点に達して袋小路に入って、和歌所の伝統主義を笑い飛ばす一種の文学革命の萌芽。歌が庶民へ下降志向したと記す。

 これは後白河天皇が浮浪芸人(傀儡、白拍子、遊女ら)を手許に招き入れて〝今様〟を愉しんだ『梁塵秘抄』撰者になったことから端を発す。本歌取りで想像力が衰えた真空地帯に「小唄・雑歌・俳諧・狂歌など」の生命力が浸食。文学発生源が宮廷から去り始めた。その意では「定家より鴨長命」へ。『新古今和歌集』が文字通り〝夢の浮端〟になって行ったと分析する。

 また著者は『明月記』を読んでいると、登場人物の外側で凄まじい勢いで時代が変わっているのも感じるとも記す。親幕派・九条家vs上皇派・近衛家、貴族vs下層の突き上げ、仏教台頭。厳しい弾圧で法然は土佐、行空は佐渡、幸西は阿波、親鸞は越後へ流刑。

 かく時代は変われど、定家は天皇のご機嫌をとらねば生きてはいけない。その後鳥羽院は『新古今集』切継に埒が明かず。また著者は『明月記』を読んでいると朝廷の礼式・典故、有職故実などの詳細記述に閉口すると記す。だが定家は、それら克明記録を持って次第に権威を発揮。承元2年(1208)47歳で左近衛権中将。だが若い貴族らに交じっての務めで、かれの性格はさらに狷介さを増した。

 後鳥羽院は貴族文化好きの3代将軍・源実朝との友好を深めるが、鎌倉実権は次第に母政子と北条義時に集中。後鳥羽院と鎌倉の摩擦が熱を帯びる。概ねここまでが定家48歳までの日記。以後、定家は後鳥羽院から勅勘を受ける。そして承久の乱、後鳥羽院の隠岐流刑へ。さて「続編」も読みましょうか。ひとまず終わりです。

 カットは後鳥羽院の小倉百人一首(国会図書館デジタル)。「人もを(愛)し人もうらめし あぢきなくよをおもふ故へに物おもふ身は」(人は人を愛し、恨めしく思うもの。思い通りにならぬ故に、つまらん世の中だと思うから、思い悩むのです)

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