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牛込氏5)牛込城の地「光照寺」 [牛込シリーズ]

kosyoji_1.jpg 「牛込城」があった地「光照寺」へ。もう少し寄り道する。「江戸切絵図」を見ると「毘沙門天・善國寺」先の両側が「肴町」(現・神楽坂5丁目)。牛込城の城下町だった名残りの町名。そして毘沙門天の向い側の奥に「行元寺(ぎょうがんじ)」(今は「寺内公園」)があった。

 芳賀著では「行元寺」も牛込氏建立では~と推測していた。その地は「肴町・兵庫町」の人の菩提寺で、昔の赤城神社の別当寺。早稲田駅近く「宗参寺」を建立するまでは牛込氏の菩提寺でもあったのでは~と推測していた。小田原城の落城時に北条氏直の「北の方」が「行元寺」へ逃亡して来たのも、北条氏と牛込氏の関係が深かったことを物語っていると記す。

 また江戸時代になると「赤城神社」と同じく「行元寺」辺りは岡場所のひとつ「山猫=寺社境内に出没する娼婦」発祥地になる。『牛込区史』に「こっそりとして山猫は人を喰い」なる川柳が紹介とか。(★『牛込区史』も読みたいが新宿区図書館の通常利用は7月1日から。6月1日から「ステップ2」なのに、何でそんなに遅いのだろうか?)

kiriezuhoi_1.jpg さて本題「牛込城址」へ。「江戸名所図会・牛込城址」の説明は短文。「藁店(地蔵坂)の上の方が其旧地なりと云伝ふ。天文の頃、牛込宮内少輔勝行(牛込勝行)、此に住たりし城塁の址なりといへり」。「光照寺」訪問時はコロナで閉門中。「グーグルマップ3D」で侵入した。

 本堂前に「牛込城址」の史跡看板あり。~照光寺一帯は、戦国時代にこの地域の領主であった牛込氏の居城があったところである。塀や城門、城館など城内の構造については記録がなく、詳細は不明であるが、住居を主体とした館であったと推測される。説明文は続く~

 牛込氏は、赤城山の麓上野國(群馬県)勢多郡大胡の領主大胡氏を祖とする。天文24年(1555)重行の子の勝行は、姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷付近も含め領有したが、天正18年(1590)北条氏滅亡後は徳川家康に従い、牛込城は取壊された。「光照寺」は増上寺の末寺で、正保2年(1645)に神田から移転してきた。光照寺には新宿区登録文化財「諸国旅人供養碑」「便々館湖鯉鮒の墓」(新宿西口「常円寺」にある彼の狂歌碑は紹介済)などがある。

kosyojiura_1.jpg 牛込城について芳賀著には、~詳細不明だが口碑によれば、今も地名に残る牛込濠際の「市谷船河原町」~副都心線「牛込神楽坂駅」南の「南藏院」~大久保通り~神楽坂で囲まれた地域としている。いわゆる城郭ではなく牛込氏の居館中心の中世の城で、江戸城の出城の呈。大手門は神楽坂、裏門は南藏院に通じる十字路辺り。居館は「光照寺境内の本堂跡辺り」と推定。詳細不明は家康に遠慮して城を取り壊し、史料も遺さなかったためだろうと記していた。

 また光照寺の向いに最近まで「日本出版クラブ」があったが、その地は明和2年(1764)に幕府命で天文方・佐々木文次郎(大田南畝と同じ御徒勝の頭)が建てた「新暦調御用屋敷(天文台)」跡だった。昔の同地眺望の良さが伺える。牛込氏、さぞご満悦で江戸を眼下に見渡していたと想像できる。

 「光照寺」に隣接する地が江戸時代は「牛込仲御徒町」(現・中町)で、弊ブログでお馴染みの大田南畝(蜀山人)が1749年に生まれている。小生は彼の『江戸生艶気蒲焼』原文筆写までしているも、迂闊にも彼がこんな狂歌を残していたとは知らなかった。「こどもらよ笑はば笑へ藁店のここはどうしよう光照寺」。坂道がぬかるんでいたか、はたまた酔っていたかで藁店(地蔵坂)で転んだ姿を子供らに見られてとまどいの心を詠ったのだろう。

 写真上は閉門中の「光照寺」。写真中は「牛込氏(0)」でアップの「江戸切絵図」で示した「牛込城」地域。写真下が「光照寺」裏側から撮ったもの。図書館が再開したら『大胡系牛込氏の研究』と『牛込氏と牛込城』を読んで紹介したく思っています。

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