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渡辺淳一『女優』③島村抱月墓を掃苔 [大久保・戸山ヶ原伝説]

hougetuhaka_1.jpg 小生、早稲田通り沿いに在住歴あり。その近くの明治通りあたりが昔の「諏訪町65=島村抱月旧居」だった。過日、その明治通りを「学習院下」まで歩いて都電に乗った。二つ目「雑司ヶ谷駅」下車で、眼前が雑司ヶ谷墓地。「1種16号2側」の抱月お墓を掃苔した。遺族が管理困難で2004年に島根県のお寺に遺骨を移して今は墓石だけ。

 さて渡辺淳一『女優』概要の続き。~トルストイ『復活』に劇中歌『カチューシャの唄』で大人気公演。余裕を得た抱月は、牛込横寺町で劇場作りに着手。大正4年、足らぬ資金稼ぎに国内巡業から台湾、朝鮮、満州、ウラジオストックと海外公演。帰国同時に木造二階建て「芸術倶楽部劇場」が完成した。

 舞台と1・2階客席で250名収容。他に稽古場、事務所、カフェー、そして須磨子の部屋と抱月の書斎。大正5年正月、抱月はついに家を出て、ここに〝愛の巣〟を構えた。同年は10公演。新作9本の大充実。

kacyusya_1.jpg 大正6年、須磨子のわがまま、座員不満は相変わらず。沢田正二郎が脱退して「新国劇」を組織。秋公演はトルストイ『生きる屍』。挿入歌は『さすらひの唄』(作曲・中山晋平)。同年も全国公演から満州公演へ。

 大正7年秋、須磨子は新派の女形と競演。他流試合で自信を得て、次は歌舞伎座との合同公演は舞台は「明治座」。市川猿之助、市川寿美藏と競演。スペイン風邪の世界的流行で、須磨子は舞台稽古中に38度の高熱。

 看護する抱月にスペイン風邪が移り、須磨子は恢復して舞台稽古を続行。だが抱月の熱は下がらず。渡辺淳一は「抱月を入院させる手もあったが、入院させれば市子夫人が病院に駆けつけてくるだろうで、自身が看護する道を選んだのでは~」と記していた。明治座初日を明日に控えた稽古楽屋に「抱月、危篤」報。人力車で芸術倶楽部に走り戻るも、すでに抱月の顔は白い布で覆われていた。(余談だが、この時期に神近市子は入獄中)

 大騒ぎの芸術座。続々と関係者が終結。葬儀委員長が坪内逍遥に。葬儀準備の最中、須磨子は初日の劇場入り。その前に郵便局へ寄り、抱月名義の郵便通帳を自分の名義に書き換えた。芸術倶楽部で通夜と葬儀。青山斎場で告別式。芸術座は須磨子座主となって遺産相続。だが抱月亡き後の芸術座の運営が、須磨子に無理は自明。彼女は頑張れば頑張るほどに孤独と虚しさが増した。

 疲弊した須磨子が仏壇の抱月写真を見つめる。抱月が「こっちにおいで~」と呼んでいる。「わたしも先生のところへ~」。逢引きを重ねた戸山ヶ原の春霞に手をとりあって歩いている幻想~。須磨子は遺書を認め、晴着に女優髷、抱月にもらった指輪と時計をはめて、舞台裏の物置で自死。酔芙蓉著『新比翼塚』には、その日は抱月忌日(5日)で、雑司ヶ谷墓地へ詣でた夜と記されていた。32歳没。

geijyutukurabu_1.jpg 写真は雑司ヶ谷の島村抱月お墓。写真中松井須磨子著『牡丹刷毛』(大正3年刊。国会図書館デジタルコレクション)より「カチューシャ」姿の須磨子。写真下は横寺町の芸術倶楽部(史跡看板より)

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