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渡辺淳一『女優』④改めて抱月年譜 [大久保・戸山ヶ原伝説]

ningyounoie_1.jpg 抱月7周忌の大正14年刊『抱月随筆集』(国会図書館デジタルコレクション)より「島村抱月略年譜」を改めて紹介。

 明治4年:正月10日、島根県邦賀郡久佐村で佐々山一平の長男として生まれる。/明治24年:6月、邦賀郡の裁判所検事・島村文耕氏の養子になる。その前年に上京。10月、旧東京専門学校入学。/明治27年:7月同校卒業。「早稲田文学」の記者になる。(小生注:旧東京専門学校は明治35年に早稲田大学。「早稲田文学」は明治24年に坪内逍遥が創刊)

 明治28年:6月、島村瀧蔵次女いち子と結婚。/明治31年:読売新聞三面主筆となる。9月に旧東京専門学校講師になる。/明治35年:3月、東京専門学校海外留学生として英独に派せられる。/明治38年9月、帰朝。早大文学部講師。傍ら「東京日々新聞」の日曜文壇を主宰。(小生注:帝大卒の夏目漱石の英国留学は明治33年~明治36年1月帰国)。

watajyuyo2_1.jpg 明治39年:1月再興の「早稲田文学」主幹。『囚はれたる文学』『沙翁の墓に訪づるの記』『ルイ王家の跡』等名論文名文を簇出(そうしゅつ)す。/明治42年:文芸協会演芸部内の演劇研究科指導講師となる。早大にあっては既に文学部教務主任。大正元年:精神的、肉体的危機に立つ。(小生注:須磨子に夢中。明治45年・大正元年に市子夫人にデート中を抑えられる。抱月「ラブは命だ。死にたい」)

 大正2年:文芸協会幹事を辞し、芸術座を起す。早大英文科教務主任及教授を辞し、改めて講師となる。由来芸術座の事業に没頭。書斎裡の沈思瞑想の生活から急転して喧騒忍苦の巷の生活に入る、(小生注:横寺町の芸術倶楽部建設の資金稼ぎに国内巡業から海外公演。泥まみれの奮闘。木造2階建て「芸術倶楽部劇場」完成。そこで須磨子と〝愛の巣〟を構える)

 大正7年:11月5日午前2時、芸術倶楽部の一室でスペイン風邪で淋しく永眠。7日、青山斎場で葬儀執行。8月、雑司ヶ谷墓地埋葬。

 上記『抱月随筆集』に相馬御風が「島村抱月先生の七周忌~跋にかへて」が寄稿されている。~華やかな粧ひをした多くの女の人達の賑やかな通夜を振り返って「おもふこと多きに過ぎて御柩にむかへどわれおもふことなし」「通夜の人のにぎはふ中にまじらひて我は何をおもふとすらむ」「此のわれの夢見ごゝちのさめはてゝまことに泣くはいつにかもあらむ」と詠んでいた。

 また先生は「結局一個のさびしい先駆者」だった。先生の美意識は多方面に向かうも、自然の風物に心を寄せること少なく、道楽も少なかった。先生の心や眼は常に人間に、自己に、人の生活相に注がれていて、そこに先生の淋しさがあった。その意では長谷川二葉亭も同じく淋しい死を迎えた~と記していた。(小生注・『浮雲』の二葉亭四迷は朝日新聞特派員でロシア赴任中に肺炎に罹って、帰国船のベンガル湾で客死)。写真は抱月著『人形の家』表紙、渡辺淳一『女優』表紙。

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