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波乱万丈もう一人~物集高量を掃苔 [散歩日和]

mozukenohaka_1.jpg 雑司ヶ谷墓地の島村抱月掃苔途中で「あれっ」と思って撮ったのが「物集家之墓」。あの物集高量氏(1879~1985)のお墓だろうか。墓石裏に「高量 昭和六十年十月二十五日 百六才」と刻まれていた。間違いない。確か百歳前後に雑誌やテレビに多数露出。書物の山に囲まれた白髪の百歳翁の写真も有名な国文学者。

 弊ブログ1月の「気になる方々の書斎」で、「話の特集」元編集長・矢崎泰久氏(現86歳)を紹介した。~妻子から離れて都心マンションで一人暮らし。『介護ポストセブン』に昨年まで「一人暮らし。ああ、快適なり」連載。氏の父の義兄が物集高量氏。自身の新婚生活が物集氏と同居で、新聞記者で外泊続きの間に、新妻が88歳・物集翁に手籠めにされたと告白していた(ホントかいなぁ~)。物集氏がそうならば矢崎氏も「好色のすすめ」「エロティズム礼賛」などを書いている~と記したばかり。

 物集氏の父・高見氏は文献百科事典『群青索引』(3巻)と『廣文庫』(索引の原文収録全20巻)を編纂。氏の長男・高量氏は左足不自由で、いじめ対策で仲間を集めて回覧雑誌発行で小説を書き始めた。稚児趣味の少年グループ同士の乱闘事件で補導される。

 以来、心中未遂を起こすなどして小説を書き続け、1906年の朝日新聞第1回懸賞小説で賞金50円(今の1千万円)。賞金は父の編纂事業に使われた。文献を実際に買っての原文収録ゆえ、金は幾らあっても足らない。懸賞小説が縁で大阪朝日新聞に入社で夏目漱石など担当も1年で退社。

 出版社を設立して失敗。馬賊らと交際。1908年に見合い結婚。「かわらけ」で齟齬が生じて妻に逃げられた。スリに弟子入りも足が不自由で断られて博打・女遊び・稚児遊び。1912年に博文社入社。物集家の侍女・八重と結婚。博打狂いは相変わらずで借金膨大。

 1912年(明治45年・大正元年)頃ながら「かわらけ」「侍女」なる言葉に驚いた。1915年、父が倒れ、父の編纂事業に協力し前述の全23巻を刊。花札賭博で留置場へ。1939年、多額借金で差し押さえ。1950年の多摩川遊泳客休憩場の経営失敗。妻の弟・矢崎寧之(泰久の父)の板橋の家に転居。泰久の新婚妻を手籠めにしたのがこの頃だろう。

 1974年に名著普及会が前述23巻を復刊で、生活保護打ち切り。1979年に『百歳は折り返し点』刊。3年後に『百三歳。本日も晴天なり』刊。再晩年は老人施設に入って死ぬ前日まで介護婦の尻を触って怒られていたとか。106歳で没。都内最長命で都知事が弔辞を読んだ。初期写真家ボナールに続いて、大変な人生を歩まれた物集氏の紹介でした。

 以上「ウィキペディア」他を参考だが、それは『百歳は~』の巻末年譜を参考と思われる。『百三歳~』も探したが都中央図書館の他になし。渋谷区本町図書館に『百三歳~』と『百歳の青年二人、大いに語る』が貸出可。なお高量氏の妹・物集和子(藤浪和子)は名著『東京掃苔録』を刊。これは四谷図書館(館内閲覧)にあり。コロナ収束後にあちこちの図書館へ行ってみようと思っています。

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