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①新宿御苑で「京橋の親柱」を見た。京橋川とは? [散歩日和]

kiyosubasi_1_1.jpg 緊急事態宣言下の過日、新宿御苑内を散策と思ったが、宣言下中ずっと閉園。だが閉園ゆえに入口前の駐輪場隣接の柵外際に〝奇妙な石塔〟あるのに気付いた。

 藪から覗けば「きようはし」の文字。最初は「きよすはし=清洲橋」と思ったが、ややして「京橋川の京橋親柱」と気付いた。それが、何故ここに?。その隣接地は昔「みちの博物館」(詳細不明、国土交通省?)跡地で、その展示物だったものが放置されたまま~と推測した。 

 そこで急きょ「京橋川」をお勉強。京橋といえば、江戸時代から日本橋~京橋~銀座~新橋のメインストリート。「江戸切絵図」を見ると、これも埋め立てられている江戸城外濠の鍛冶橋(八重洲2丁目辺り)近くから分流して八丁掘へ抜ける開削運河。京橋川+八丁掘川が計740mで、そのうち京橋川は600mほど。架かるのが比丘尼橋~中之橋~京橋~三年橋~白魚橋(各別称あり)。江戸時代はこの運河沿いに薪炭、竹、青物、白魚などの河岸があって物流拠点になっていたらしい。

 「比丘尼橋」は長さ約12.6m。広重描く「名所江戸百景」に「びくにはし雪中」と「京橋竹かし」がある。「びくにはし雪中」の「山くじら」は猪肉を食べさせる「尾張屋」で、右の「〇やき」は芋の丸焼き屋。橋を渡るのは「おでん」か「煮売り屋」さん。「京橋竹かし」は京橋の擬宝珠が描かれ、下流の竹河岸風景。さらに下流に中之橋、白魚橋を望む。 

kyobasiezu_1.jpg 「比丘尼橋」は北側(東京駅側)に比丘尼(有髪僧形の娼婦)宿があっての名。「中之橋」は明治になって「紺屋橋」。今は「紺屋橋児童公園」で名が残る。その辺りは江戸期は「大根河岸」で野菜の荷揚げ場。後に青物市場が立った。「京橋」を飛ばして次が「三年橋」。その北側が「炭町」で別名「炭屋橋」。薪炭は当時の生活必需燃料。次の「白魚橋」は白魚漁師が幕府献上の納入準備をした屋敷があっての名。

 そして「京橋」。日本橋から東海道で京都へ向かう際に渡る橋で「京橋」。格式ある橋ゆえに橋の欄干に「擬宝珠」付き。日本橋~京橋の間、つまり「擬宝珠の間に生まれた」が江戸っ子のなかの江戸っ子とか。架kyoubasiukiyoe_1.jpg橋は日本橋と同時期で慶長8年(1603)頃。長さ約26m、幅は約7.8m。

 明治8年(1875)に石造りアーチ橋に架け替えで、その際に江戸時代の名残りで擬宝珠の形の石の親柱が、詩人・佐々木支陰の筆による「京橋」「きようはし」が彫られて立った。

 大正11年(1922)の拡張工事でアール・デコ風の橋に架け替えられた際に、照明設備を備えた「石及びコンクリート造り親柱」を設置。その1基が新宿御苑の隣接地に置かれているとわかった。では新宿から京橋へ、今も遺る擬宝珠型の石の親柱らしい。予習はこの辺で、さてアール・デコ風親柱を観に行きましょうか。この項の参考は杉浦康著『消えた大江戸の革と橋』他。②へ続く。

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