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②京橋の「アール・デコ風親柱」 [散歩日和]

ginnza1cyoumekouban.jpg 銀座線「京橋」下車で地上へ。銀座中央通りに出て銀座方向を見る。前方に京橋川を埋め立てて出来た首都高速道路が横切っている。その下が「京橋」。銀座に向かって右側の高速道路下にまず「江戸歌舞伎発祥之碑」。~寛永元年に中村勘三郎が猿若中村座を設けたこの地を、歌舞伎発祥の地として記念する~の説明文。その奥に「京橋大根河岸・青物市場」の碑もあった。

 さて高速下を渡った先に「銀座1丁目交番」。その屋根が「アール・デコ風の親柱」を模した建物になっていた。その横に擬宝珠を模した石の親柱、京橋史跡看板。「2基(北側に1基あり)の石の親柱は、明治8年(1875)に石造アーチ橋に架け替えられた時の擬宝珠の形で、佐々木支陰の筆による「きようはし」と、片や「京橋」と彫られた2基が橋両側に設置されている」と説明。

 石およびコンクリート造の親柱は「大正11年(1922)の橋拡張工事でアール・デコ風の橋に架け替えられた時の、照明設備を備えた近代的意匠の親柱をモニュメントとして設置している」の説明。その史跡案内板に載せられた大正期の京橋写真に、そのアール・デコ風の親柱がしかと写っていた。その親柱現物は、橋の反対側に、銀座レンガ街のガス灯碑と並んで立っていて、まさに新宿御苑隣接地kyoubasioyahasira1.jpgkyodenga.jpgと同じ親柱だった。

 京橋と云えば、小生にとっては「山東京伝」。弊ブログでは彼の『江戸生艶気蒲焼』の全文筆写・絵も複写で「くずし字」お勉強をしている。また2011年秋には、下町自転車散歩中、回向院に「山東京伝(岩瀬醒)」墓があるのを知って。やや興奮気味に掃苔レポート。また浅草寺境内の「京伝机塚」も紹介済。

 今回の京橋・親柱調べで、サイトや書籍によっては山東京伝は京橋生まれとの紹介例ありで、それは間違い故に訂正しておきたい。山東京伝は、深川で質屋の息子として生まれた。安永2年(1773)、13歳の時に父が京橋銀座1丁目(新両替町辺り)に転居して家主になった。京伝はその京橋時代に浮世絵を学び、絵師・北尾政寅になった。

 天明2年(1782)、22歳。戯作『御存商売物』で戯作者・山東京伝と著名。「江戸城の紅葉山の東」で山東、「京橋の岩瀬伝蔵」から「京伝」。彼のデビューを後押ししたのが牛込の大田南畝だった。30歳で吉原・扇屋の新造お菊と結taisyokyobasi.jpg婚。31歳、「寛政の改革」で「手鎖50日の刑」。その後に馬琴が弟子入り。33歳、京橋の木戸際(アール・デコ風親柱設置の場所辺り)に借家して紙煙草入れの店「京屋」を開店。絵師・戯作者・デザイナー・宣伝マン・自身ブランド店経営~のマルチクリエーターの活躍。その後にお菊没。

 35歳。父が支配地内の医師の売家(銀座1丁目3番地4.京橋から銀座方向へ7、8軒先の伊勢伊ビル辺り)を買って移転。「京伝店」はさらに大繁盛。40歳、吉原玉屋の23歳「玉の井」を落籍して結婚。文化13年(1816)56歳で没。(参考は小池藤五郎著『山東京伝』)

 また歌川広重の旧居も京橋と日本橋の間~、ブリジストン美術館改め「アーティゾン美術館」の京橋側隣kyobasioyabasira3.jpg接辺りで、目下は建設工事中(新TODAビル計画)辺りに旧居が在ったらしい。近辺には古美術店多数。広重当時からそんな特色を有していたのかしら。また日本橋から呉服橋方面へ行った所に竹久夢二の「店」跡史跡がある。

 以上で新宿御苑隣接地にあった「親柱」調べは終了。だが同隣接地には、もうひとつ立派な親柱があった。さて、どうしましょう。

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