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青山二郎②クーデンホーク光子と青山二郎 [読書・言葉備忘録]

IMG_8181_1.JPG 昨年秋に「クーデンホーフ光子」シリーズをアップした。その時に、~光子は明治7年(1874)、牛込納戸町生まれ。父・青山喜八は幕末に九州佐賀から出て来て「たね油」で財を成した父の子。明治20年になっても「ちょうん髷頭」の旧弊な男で。家業は骨董・油屋。2店舗を二人の妾にやらせていた、と記した。

 さて田野勲著『青山二郎』を読むと、光子の父・喜八は靑山二郎の祖父の兄弟で、光子は二郎の母きんの2歳上の従姉妹だと記されていた。青山二郎は、父・八郎右衛門と母・きんの次男として明治34年(1901)に生まれた。長男・民吉は5歳上。靑山家は信州上田の出身で、米を中心に商っていて、その後に江戸で仲買をしていたらしい、と記されていた。女系家族ゆえ先祖は母方系。九州佐賀と信州上田のどちらが正しいのだろうか。

 青山家代々の墓は、三軒茶屋の正蓮寺。墓碑に二郎の母きん(昭和8年没)、父の八郎右衛門(昭和26年没)の名はない。同墓隣接で「青山喜八」の墓はある。青山八郎右衛門は婿養子で、本名は茅根清十郎。茨城県久慈郡出身。慶應義塾大学2期生で、結婚前は銀行員。曾祖父が一人娘きんの金遣いの荒さから、銀行員で締まり屋の八郎右衛門を養子に迎えた。

 八郎右衛門は家の脇を蛇行する古川を、防災のために真っ直ぐに改造・護岸して、それによって余った土地を安く払い下げでもらって広大な土地を手にした。現・麻布十番を走る高速道路「一の橋ジャンクション」辺り一帯が青山家の土地になって、その敷地面積約1万坪。彼はその広大地で貸家業を始めて莫大な収入を得た。当時の『時事新報』の資産家名簿に名が載る大金持ち大地主。彼は単なる締まり屋ではなく優れた企業家でもあった。

aoyamamituko.jpg だが理解に苦しむのは、長じた二郎が眼前に父が現れると「ハウス」と犬に命令するように立ち去らせ、長男・民吉も「下がれ」と追っ払ったとか。富豪ながら彼は居住するのは万年床の四畳半。一体、何があったのだろうか。その辺の謎が、とても気になる。

 次郎の母きんは、光子の母つねより2歳下の従姉妹。きんはどんな女性だったのか。きんは一人っ子で甘やかされ育って天真爛漫、我儘、放縦、金遣いも荒かった。長男・民吉は太った大柄だったが、小柄華奢な二郎を溺愛して二郎が12歳になっても彼を抱いて寝ていたとか。

 別冊太陽『靑山二郎の眼』で、森孝一は『「好き」に尽きた人生』で、こう説明していた。青山家は七代続いた女系家族。光子も二人姉妹で、光子の母つね(津弥)も四人姉妹。麻布一の橋の青山家には曾祖父、曾祖母姉妹、母きん、父八郎右衛門、民吉と二郎が住んでいた。祖父は木場に、祖母は大森に住んでいて、青山家の采配は曾祖父が振るっていた(この辺もよくわからない)。青山家には強精剤「おっとせい丸」の看板があるも、これは八郎右衛門には関係なく、恐らく幕末頃の靑山家の珍商売の一つだったのでは~、と記されていた。

 謎の多い青山家ストーリー。後に〝青山学院〟とまで呼ばれるほど多くの文人らから崇拝された文芸サロンの主、青山二郎の少年期についてを探ってみる。

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