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青山二郎①『四谷花園アパート』 [読書・言葉備忘録]

IMG_6700_1.JPG 図書館で以前から気になるも、手にしなかった村上譲著『四谷花園アパート』を読んだ。昭和のはじめ頃に、現「花園東公園」辺りに三棟続きの大きなアパートがあって、そこで活発な文壇交流があったそうな。場所は靖国通り、富久町西交差点際の現トヨタ販売店の角に小さな「新宿区地域文化財〝花園アパート跡〟碑がある。その奥が「花園東公園」。

 史跡にこう記されていえう。「装幀家・美術評論家青山二郎が昭和8年~17年頃までの約8年間を過ごしたアパートの跡。同じ頃に評論家小林秀雄や詩人中原中也も居住した。青山の部屋には他に三好達治、大岡昇平、河上徹太郎、永井達男らも集い、通称「青山学院」と呼ばれた文芸サロンとなっていた」(小生、これら人物に興味抱かずで、読む気にならなかったらしい)

 一号棟と二号棟が東西に並び、コの字型廊下でつながり、三号棟は廊下の東側に独立して建っていた。十銭入れるとガスが使え、管理事務所や食堂があり、男女別の共同湯があって当時の文化アパート。この文章から、さぞモダンなアパートと思うが、hanazono5_1.jpg今日出海がこう記している。「女給の住む木造の薄汚いアパート。見るからに見すぼらしく、入ると便所の臭気が建物中に漂い、セメント廊下に下駄の音が響き、部屋の外に炭俵を置かれ、廊下は炭の粉末で白い足袋が忽ち汚れてしまう。そんなアパートだが、青山の部屋へ入ると様相は一変。十畳と六畳で、広い部屋が応接間で革張り肘掛椅子やソファーが並べられ、蓄音機にバッハ全集やモーツァルトのレコード。朝鮮の壺(高価骨董)や小机等々が足の踏み場もhanazono6_1.jpgないほどに転がっているが、彼なりに整頓されている。彼は大抵この部屋にいて、そこに昼間から人が訪ねて来るのである」

 同アパート二号棟は三階建てで、そこに中原中也が新婚所帯を構えた。青山の隣にピアニストで河上徹太郎と親友で吉田健一の親戚の伊集院清二が、かつて高見順の妻で銀座「エスオアノル」の女給・石田愛子と同棲していた。愛子が伊集院を抛り出すと、以前の同棲相手の若者と暮し始め、また別の男になり、最後は上海に渡った。

 次に坂本睦子が来て、青山と結婚することになる服部愛子も引っ越して来た。青山はとりもった小林秀雄と森喜代美も新婚当初は同アパートにいて、中也と同棲し、小林秀雄とも一緒に住んだ長谷川hanazonosiseki_1.jpg泰子もからむ。彼ら住民に加えて青山が通う銀座や新宿の酒場仲間らも遊びに来て「四谷花園アパート」はますます賑わう。

 この〝青山学院〟メンバーは新宿「ムーラン・ルージュ」にも通った。そこに菊池寛、志賀直哉、谷川徹三、高見順、田村泰次郎、丹羽文雄、広津和郎、石川達三~がいる。新三越裏のカフェー横丁で呑む文士らもいる。萩原朔太郎も夜の新宿でうろついでいた。

 小生には、馴染ない作家ばかりだが、実は同地はあたしの社会人最初の広告制作会社があり、フリーになった小生のスタッフが増す度に事務所を転々とした場所なんだ。

 同書には最近の弊ブログで紹介のクーデンホーク光子の父と、青山二郎の祖母が兄弟だったとあり、また金子光晴が海外放浪から帰国した住んだ安旅館「竹田屋」は同アパート近く太宗寺横で、森三千代が住んだのが二丁目の中華料理屋「楷喜亭」二階アパートだと記されていた。光晴の「竹田屋」には山之口獏や正岡容や国木田独歩の息子・虎雄が訪ねてくる。

 その頃に草野心平が屋台の焼き鳥屋「いわき」を角筈でやっていた。花園町十三番地のバラック小屋に田中英光と山崎敬子が住んでいて、英光が敬子を刺して四谷警察所に逮捕された。本郷・菊富士ホテルを出て西大久保の自宅と執筆場所の新宿ホテルを往復していた広津和郎が、手をつけた21歳下の女に付きまとわれていて、武蔵野館通りの喫茶店で雑誌『人民文庫』会合中の高見順、田宮虎彦、田村泰次郎らが警官に踏み込まれて手錠の数珠つなぎで淀橋警察署まで連行されて行った。

 まぁ、そんなこんなの新宿文壇事件が紹介されていて、それは以前に面白く読んだ近藤富枝『本郷菊富士ホテル』の新宿版だと気が付いた。馴染ない作家・評論家らに加えて構成・視点も塩梅悪く夢中にさせるほどの内容ではなかった。 

 それにしても馴染ある地で、またウォーキング圏内ゆえに、それらの誰かにいずれは興味を持ったら、また読むなり調べ知ろうと思っています。写真は上から本、花園東公園、トヨタ角 そこに設置の史跡案内。

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