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青山二郎③麻布中を中退し骨董修業

IMG_8182_1.JPG 青山二郎は小学生時代はクラスで1番か2番。大正4年(1915)に麻布中学に入学。兄・民吉と共にアマチュア美術団体に絵を出品。中川一政の画塾に通って油絵を習う。また自宅「一の橋」の角にあった映画館へ連日通った。

 学校より映画の世界に魅了されてか、成績悪化で不登校気味。母きんが二郎を抱きながら「よしよし、そんなに嫌なら行かなくてもいいよ」で麻布中を中退。12歳まで母に抱かれて寝て、10代後半から毎月500円の小遣い(大正時代の小学教師初任給は50円)をもらって吉原通いや骨董買い。金がなくなると母を厠まで追いかけて小遣いをせびったとか。彼は生涯「無学」コンプレックスを抱くことになる。

 ここまで記せば、何だが金子光晴が浮かんでくる。光晴は貰いっ子で、16歳の義母に〝おもちゃ〟のように可愛がられ、10歳頃から近所の子らと〝桃色遊戯〟。牛込・津久井小学校時代に小林清親から絵を習い、中学時代に父の春画コレクションに魅入り、中3で本格初体験。14歳頃から義母と相姦。その罪意識を薄めるべく悪所通い。早大入学も、田舎の学生ばかりと馬鹿にして退学。上野美大に入るも、荒んだ生活で身体を壊している。青山二郎は光晴より6歳下だが、ここまでは煮た者同士。だが光晴は徹底して離群性を貫くが、青山二郎は無性に群れたがった。

Soetsu.jpg 二郎の兄・民吉は、東大入学で美学専攻の秀才。「他人が馬鹿に見えて」次第に奇人化して行く。二郎は16歳の時に京橋「繭山龍泉堂」(大正9年より現・京橋2丁目で開業)で疵物の宋陶磁器水盤を購入。当時の番頭・不孤斎(広田松繁。その後に「壺中居」創立)に「天才的な審美眼を持っている」と言わしめた。翌年に民吉のコネで東大心理学教室で開かれた東大教授・助教授、実業家らで構成された「陶磁器研究会」、同母胎の「彩壺会」に参加。

 21歳。青山自宅近くに越して来た柳宗悦と親交。うるさいほど訪ね、彼の蒐集品を褒め称え、それを譲られたりする。28歳で「彩壺会」で「朝鮮工芸概論」を講演。25歳(大正15年・1926・昭和元年)に柳宗悦の「日本民芸美術館設立趣意書」に名を連ね、蒐集品選択責任者の一人になる。26歳で横河民輔の中国陶磁コレクションの図録編纂。30歳で『陶経』(限定50部)、『甌香譜(おうこうふ)』(現在東京博物館蔵)を出版。陶磁器・骨董界の押しも押されぬ存在に昇り詰めた。中学を中退後、学ぶことは骨董世界のみで、全霊で突き詰めて行ったのだろう。

 写真は「別冊太陽」の『青山二郎の眼』表紙。下は柳宗悦「ウィキペディア」よリ。

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