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3:馬糞の内藤新宿 [甲駅新話]

koueki2_1.jpg目録 大木戸(付り=つけたり 馬士=まごのはなし 友の出会)  茶屋の体  座舗のしやれ 床の内 隣座敷の様子  きぬぎぬのころ  畢

 「目録」は脚本の「場」に相当か。「畢=おわる」。

甲驛新話 大木戸の塵ハ水売の雫にしめり、天龍寺の鐘は蜩の聲にひゞく。<クツワノオト>ちやらんちやらん <馬士二人歌>おゝれへとなア~いかぬウか、ソレそうだになア~ <アトノ馬士>かミ村のウ、江五右衛門がアよめ女ナア、産月だアといつけがどふだア。まだひり出さねへかなア。<サキノ馬士>大キナ声シテ あんだかハア、よんべも夜ふてへ疝積のウいてへとつて、おれらアも張番のしたが、がうら出そくねたアよ。何がはあ蚊にはお志めらえるし、たゞもいられねへから、おゝめ小めのウして、ひどヲ~いやつをニ本とられた事よ。<アト>四文銭でか <サキ>おゝよ <アト>そりやアはあ、たけへかん病のしたナア <又歌>おうらのウせゑどへなア しのびなあ、小ヲ桜の枝アおゝりになァ、サヘ~。

 まず最初は情景描写から。内藤新宿は大木戸と天竜寺の間。大木戸の塵は水売りの雫でしめり、天竜寺の鐘が蜩の声に響いている。両端を記し、晩夏の遅い午後だと示している。さらに効果音で「轡の音」が入ってくる。新宿郊外(青梅街道なら中野より先、甲州街道なら下高井戸より先だろうか)からの馬士二人が馬子唄を唄いつつ登場。田舎言葉丸出しの会話が耳に入る。「田舎弁+くずし字」展開で、読むも難儀。要約すると、上村の江五右衛門の嫁が産月だが、まだ産まれないか。夜っぴいて腰が痛いというので、オラも張り付いていたが、まったく出そうにない。蚊にいじめられてじっとしてはいられねぇから、大目小目(博打)をしたが、銭さし二本負けたよ。(四文銭で一本四百銭。二本で約四千円を負けた)。そりゃ高い看病になったなぁ、まぁ、そんなことを話し合っている。

 絵は、広重の『江戸百』の「四ッ谷内藤新宿」を模写した。馬のケツと馬糞をローアングルから描いたインパクトある構図。また歌川広景の馬が暴れている「江戸名所道外尽四十九・内藤志ん宿」も有名だろう。馬糞の多さに加え、玉川上水を江戸市中へ送る工事で、四谷辺りは絶えず工事中だった時期もあろう。

 一方、甲州街道の内藤屋敷寄り玉川上水の桜を描いた広重『玉川堤の桜』、『江戸百』の「玉川堤乃花」は美しい景色。『絵本江戸土産』の「四ツ谷大木戸内藤新宿」には「宿美麗なる旅店多く軒をならべ」とある。内藤新宿は時代によってさまざまな顔を見せたのだろう。


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2:239年前の新宿「序」 [甲駅新話]

koueki1_1.jpg 約百字の漢文を飛ばして「序」から。すでに江戸の戯作は「古語辞典」をまめにひけば概ねわかると知ったので、今回も辞典首っ引きで始めてみます。

いたこ出嶋のまこも(真菰)にハあらで(有らで=なくて)、四谷新宿馬糞の中にあやめ(道理、分別の意もあり)もしらぬ一巻をひろひ得たり。朝帰りの朝な朝な、茶づる如くによミ流せば、力をもいれずして、あらかねの(「地」の枕詞)地廻りをうごかし、目の見えぬ按摩針の声きく如く。問屋場(とひやば:駕籠・馬の継立てをする所)をとはずして、四ツ手(四手駕籠。四本の竹で出来た安い駕籠)のはやきおそきをしり、大木戸をいでずして、倡家(やたい=娼屋)のあしきよきをしれバ、あさぎ染あいたらぬ情けも、てんぷらの味噌ごき中となるぬべし。たとひ時うつり客去り、むかひの桃灯(提灯)行かふとも、いさゐかまハず、いさらご(伊皿子)の品川と肩をならべて、駅路の鈴の音たえず、玉川の流れつきせずして、柳新葉のかゝるまで、この桜木(版木)の朽まじきこそ。  安永四ッのとし文月の頃 風鈴山人水茶屋に書す

 冒頭の文言は当時、江戸で流行った「潮来節」の替え歌 ♪四ツ谷新宿馬糞のなかに、あやめ咲くとはしほらしや」からとか。(小池正胤『反骨者大田南畝と山東京伝』より)。「茶づる=茶漬けを食う」。「ジャズる」など今も使われる名詞の動詞化が、江戸時代から使われていたとは面白い。読んでいれば、地回りの姿が浮かび、座頭のふれ歩く声も聞こえてくるようだ、と記している。

 「浅黄染、藍足らぬ情け、天麩羅の味噌ごき中となりべり」とは。浅黄色は田舎侍、野暮のこと。藍色が足りないのが浅黄色。その野暮の情けも、天麩羅に味噌をつけるようにしつっこく濃い仲になるにちがいない。(勝手解釈)。「柳新葉のかかるまで」も、由来ある言い回しだろう。「この桜木(版木)の朽(くつ)まじき(はずがない)にこそ(~でほしい」で結ばれている。えぇ、著者に今日の新宿の繁栄を見せてあげたい。

 絵は、山東京伝(北尾政演)が描いた若き大田南畝を〝遊び模写〟したもの。


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1:「風鈴山人」とは誰だ [甲駅新話]

kouekisinwa_1.jpg 山東京伝『江戸生艶気蒲焼』全文筆写と全絵模写を終えた。これは仮名中心だったゆえに、今度は漢字くずし字にトライです。さて、どの戯作を読みましょうか。ここは山東京伝を引き立てた大田南畝作と言われる『甲驛新話(こうえきしんわ)』が妥当だろう。

 大田南畝については「マイカテゴリー」を設けているので、ここで経歴などは贅せず。同作は安永四年(1775)刊で、南畝ならば二十七歳の作。牛込仲御徒町(現・新宿中町)在住で、版元は市ヶ谷左内坂下の富田屋新兵衛・新甲館。あたしは大久保から牛込中町を右折し、左内坂に設けた事務所に通う時期があったので、なんとも親しみが湧く。

 始める前にまず、早稲田大学図書館データベース『甲驛新話』原本を参考にしたことを記しておきます。なお、資料一覧は最後に掲載。さて、この洒落本の最初は百字ほどの漢文で「馬糞中咲菖蒲述」とあり。「序」は「風鈴山人水茶屋で書す」とある。その正体は誰だろうか。

edomiyagejyuku_1.jpg 大田南畝デビュー作『寝惚先生文集』の序文を書いたのは「風来山人(平賀源内)」で、これまた源内だろうか。同年の源内は荒川通船工事や秩父木炭の江戸積出し、エレキテル復元前年で奔走中。書いたのは大田南畝が通説。岩波書店「大田南畝全集」にも収められているし、「日本古典文学全集」にもそう記されてい、森銑三著作集『大田南畝作洒落本小記』もそう書かれている。

 永井荷風作成の「大田南畝年譜」にも『甲驛新話』は「山手馬鹿人」とされている。これは続編『粋町甲閨(すいちょうこうけい)』著者が「山手馬鹿人」で、彼が『甲驛新話』を書いたと記しているため。その「山手馬鹿人」が大田南畝だとされていたが、最近になって疑問符がついたらしい。新宿歴史博物館刊の「『蜀山人』大田南畝と江戸のまち」(平成二十三年刊)では、『甲驛新話』の著者は南畝とは別人説で「年譜」から同作を外している。これはどうやら平成二十年の「日本近世文学会」発表の藤井史果『山手馬鹿人・大田南畝同一人説の再検討』によっているらしい。

 まぁ、あたしは学者ではないゆえ、この件には立ち入らぬ。従来説の浜田義一郎箸によれば、大田南畝が自ら版下を書いたそうで、筆写するは若き南畝に近づく気分でやってみましょう。また著者正体が誰であろうと、今から二百三十九年も前の甲驛(内藤新宿)を描いた洒落本には興味ひかれます。幼児期に新宿御苑の池に落ちて大木戸門前の親戚の家に泣き込み、社会人第一歩が新宿御苑前の広告代理店で、初めてオフィスを構えたのが昔の新宿厚生年金会館の並びのビルの一室。さらに御苑前の広いロフトへ移転。新宿は我が街でもあります。

 絵は『絵本江戸土産』(広重)の「四谷大木戸内藤新宿」。~四谷通りの末にして甲州街道の出口なり、この宿美麗なる旅店多く軒をならべ、その賑ひ品川南北の驛路に劣らず」。なお『甲驛新話』は勝川春章の絵が一点のみ。『江戸生艶気蒲焼』模写で芽生えた筆ペンでの絵心を中断せず、いろんな浮世絵の模写遊びも並行しつつやってみましょう。次回は「序」から。


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