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松本健一「幕末の三舟」 [幕末維新・三舟他]

tessyuuhaka_1.jpg 幕末維新に疎いから、三崎坂の全生庵についても疎かった。三遊亭圓朝のお墓があり、夏に「圓朝まつり」があって落語家らが集い、圓朝が鉄舟の亡くなる直前に一席演ったことぐらいは知っていたが<全生庵は山岡鉄舟が明治維新に殉じた人々を弔うべく建立した>と知って、己の無知を恥じた。ここで松本健一「幕末の三舟」で三舟のお勉強。

 明治元年(慶応4年・1868)」3月5日のこと。有栖川宮親王を大総監とする西軍が、徳川幕府(慶喜)を討つべく駿府まで進出。その参謀・西郷隆盛へ、勝海舟が「江戸幕府は恭順の意を表し、慶喜は謹慎しているゆえ、江戸攻撃で日本を大混乱させてはならぬ」の手紙を届ける使者に高橋泥舟を選んだ。

 泥舟は上野寛永寺に移った慶喜の護衛中で、ここを離れると恭順反対派から慶喜を守れないと、義弟・山岡鉄舟を推薦。鉄舟は六郷まで到着していた西軍の先鋒部隊をかき分けて3月9日に駿府の西郷と会談。江戸城の総攻撃中止の五ヶ条のうち「徳川慶喜を備前へ預ける事」のみに反対して無血開城を仮成立。西郷が高輪の薩摩藩邸に入った3月13、14日に勝海舟・山岡鉄舟が面会。西郷が江戸城総攻撃停止の命令を下した。

 三舟はすでに「徳川家のため」ではなく、日本の新たな姿を見ていたが、こうした広い視野を持たぬ侍たちのさまざまな動きが続いた。勝海舟は新政府の顧問的役割を担い、鉄舟と泥舟は駿府に移った慶喜に従った。その後に鉄舟は勝からの依頼で明治天皇の侍従職になり、泥舟は隠棲した。明治15年の維新勲功では薩長らがあざとく勲功を得んと蠢くなか、勝海舟は素直に履歴書を提出も、鉄舟はそんなものはそっちで書けで、泥舟は一切無視。

 同書では勝海舟を、合理主義に基づいた政治的ヴィジョンとアイデアと機を掴むに優れた政治的人間。山岡鉄舟を政治的人間ではなく、自分に与えられた役割を一途に尽くす至誠の人。高橋泥舟を、忠義を尽くすが引き際を知って、隠逸・風流に生きることも知った人・・・と分析。

 最後に三舟の最期。山岡鉄舟は座禅を組んだまま死を迎えた。そこに勝海舟が来て「先生、ご臨終ですか」に「ただいま涅槃の境にすすむところでございます」と応えて享年53歳。勝海舟はそれから11年後に脳溢血。死に際して「コレデオシマイ」と言ったとかで享年77歳。(慶喜は重しが消えて小躍りした)。泥舟は隠棲して書画を売ったりしていたそうだが、勝海舟没4年後に牛込矢来町で世間も知らぬようにひっそり世を去った。享年69歳。

 以上、松本健一「幕末の三舟」の生き死にの物語一冊を900字で要約。あたしは昨日、洗足池の勝海舟墓地掃苔に小チャリ・ポタリング。14㌅自転車が2台になってGGBを貰ってくれる方が決まって最後のロングラン。勝海舟夫妻のお墓では、子らが楽しそうによじ登って遊んでいた。


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