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勝海舟の女たち [幕末維新・三舟他]

 連日酷暑。熱中症で何人倒れ、何人亡くなった・・・が日々報じられている。クーラーの効いた部屋で読書する他なし。8日のブログで、勝海舟の本当のお墓はどこにあるんでしょう、と記した。勝の赤坂氷川邸には妻と子と孫と、さらに妾とその子や居候らの大所帯で、“にわか勝っつあぁんファン” には誰が誰だかわからぬ。ここ一ヶ月に関連本・・・松本健一「幕末の三舟」、山本兼一「命もいらず名もいらず」、半藤一利「それからの海舟」、江藤淳「海舟余波」を読んだが、さらに勝部真長「勝海舟」を読書中で、ここから下世話に、まずは勝っつぁんの女性関係から整理してみた。

 まず勝っつぁんは23歳で深川芸者だった二つ年上の「お民さん」と結婚。極貧生活だったが、ずばぬけてよくできた女房で、勝を支えつつ二男二女を産んだ。長男は小鹿、長女はゆめ、次女は孝(たか)。勝っつんは小鹿13歳の時に、私費で学友二人を添えて渡米させた。小鹿はその後、官費留学となって明治10年にアナポリス海軍大学校を卒業し、英仏に渡欧後に帰朝。海軍関係ポストを歴任するも、勝70歳の時、明治25年に40歳で死去。偉大な親のプレッシャーを背負い続けた人生だった。小鹿さんのお墓は青山墓地。

 勝家の跡取りがなくなって、勝が亡くなる直前に小鹿の娘(孫)の伊予子さんに徳川慶喜の11男、12歳の精(くわし)さんを婿にして「勝静」とした。静さんは慶喜公の血を受け継いでスポーツや物作り好き。伊予子との間に一男五女を設けつつ、自宅の鉄工所で1000CCのバイクを作ったり(鉄工所メンバーが後にあのメグロを作った)、オリエンタル写真工業、浅野セメント、石川島飛行機製作所などの重役を歴任。しかし伊予子さんが亡くなった後に、愛人・水野まささんと妾宅を設け、昭和7年、44歳でカルモチン心中。静・伊予子夫妻のお墓は勝家ではなく、谷中の慶喜公の向かい側で眠っている。

 時代を戻す。勝っつぁんは小普請組から抜け出して懐が豊かになるに従って好色の虫が騒ぎだす。まず長崎伝習所時代(34歳~)に、梶久磨(お久さん)を愛人にする。お久さんは14歳で、すでに未亡人。勝っつぁんはロリコンかと思ったが、当時はこんな年齢が普通だったんですね。二人は一男一女を設けるが、女児は亡くなって梅太郎が育つ。お久さんは梅太郎出産の2年後、25歳で死去。長崎の聖無動寺で眠っている。梅太郎はその後、勝邸で生活し、勝が支援した商業講習所の初代校長ホイットニーさんの長女クララさんと結婚。6人の子を産むが、勝っつぁん死後に離婚。クララさんは帰国し、後に「クララの日記」(講談社)が昭和51年に出版される。勝っつぁんには蒼い眼の6人の孫がいた。

 勝っつぁん38歳、安政7年の咸臨丸渡米前に、増田糸「お糸さん」に手を出し、帰朝後にお糸さんは勝の三女・逸子さんを産んだ。お糸さんは気遣いとおしとやかさを有し、勝のお気に入り。勝の身の回りを世話して、勝臨終にも付き添った。お糸さんが産んだ逸子さんは、大蔵官僚・目賀田種太郎に嫁して男爵夫人となった。お糸さんは我が子・逸子さんを「お嬢さん」と呼び、民夫人も自分の娘のように育てて、逸子さんは長じるまでお糸さんが本当の母とは気付かなかったとか。お糸さんは勝家でも特別な存在で、青山墓地の勝家のお墓で眠っている。

 勝っつぁんは、5歳から赤坂氷川邸にきていた森田米子・お米さんにも手を出した。お米さんは洗足池の別荘や日光東照宮お参りなどに同行。お米さんは18歳まで氷川邸にいて、後に木下川の梅屋敷の別荘管理をした。お米さんは「女史」と言った感じで、時に梅屋敷から赤坂氷川邸に来ると孫たちは「およねが来る」とちょっと緊張したとか。

 勝っつぁんはまた62歳の時に、揮毫の際の手伝いに来ていた近所の旧幕臣・清水家の娘「とよさん」にも手をつけて、妙子さんを産ませている。とよさんはその後に暇をとって香川家に嫁して香川とよ。妙子さんは、上記のお米さんが梅屋敷で育て、そこから学校に通わせた。

 勝っつぁんは氷川邸で働く女性に手をつけるのが癖のようだ。赤坂氷川邸は冒頭で記した通り大所帯で、その台所方を一手に引き受けて、超多忙な小西兼子(お兼さん)にも子供を産ませている。お兼さんは、勝邸では台所仕事の他に、佐久間象山未亡人の瑞枝さん(勝の妹の順子さん。すでに13歳のお蝶さんのほか、お菊さんも妾にしていた象山42歳に順子さんは17歳で嫁いだ)の相手もしていたとか。なお、お兼さんの子は、後の岡田義徴(七郎)。なおなお、諸田玲子「お順」がえらく面白い。

 勝海舟の妻妾同居には、こんな理由もあるとか。江戸の武士は公務以外は外泊禁止が原則。勝は在宅の印、玄関に高張提灯をたてることを怠らなかったとか。ゆえに氷川邸の女子に手を出し、そのまま同居。すべて民夫人の度量の大きさあってのこと。

katukenohaka_1.jpg 勝家の本来のお墓は、新宿の赤城元町の清隆寺。明治維新の駿府移転で両親の勝小吉・お信の墓を静岡・蓮永寺に移したが、明治28年に清隆寺から青山墓地に移動。ここには小鹿さんと妻の栄子さん、お糸さんらが眠っている。お民さんは、もう勝っつぁんのそばは嫌で、小鹿のそばがいいと青山墓地に眠っていたものの、勝が洗足池畔の墓に入って、お民さんもここに移されて夫妻の墓になった。しかし、夫妻のお墓は子供らがよじ登るなど公園化されてい、子孫が別のお墓に遺骨を移したとネット記述があった。★追記:写真は平成28年春の青山霊園のお墓。昭和28年7月改修とあるが荒れていた。脇に「増田糸之墓」だけがあった。

★井上遠遊様より質問をいただきました。コメント機能がうまく使えませんので、ここで返答させていただきます。この文を記したのは3年前で記憶が薄れつつありますが~。「お民さんが勝っつあんの墓に入るのはイヤだ云々」は、同年8月8日のブログで「洗足池畔の勝海舟のお墓」(マイカテゴリー「幕末維新・三舟他」で記しています)を訪ねた際の記事で、その文については半藤一利「それからの海舟」からと記していますから、引用元は同書に間違いないと思います。半藤一利氏の同書巻末に参考書一覧があれば一次資料(文献)先もわかるかもしれません。

★この記事で小生が読んだ本(引用元)を列挙していますが、他には半藤一利氏に薦められて書いたとかの諸田玲子「お順」も読みました。以上の他には自転車で勝海舟史蹟巡りをした際の案内板などで得た知識が小生の「勝海舟関連の全知識」ですから、以上のいずれからの引用です。一次的資料(古文書)による記事ならよかったのでしょうが、そこまでの文ではないことをお詫び致します。


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