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勝海舟旧居巡り(2) [幕末維新・三舟他]

katuabouato1_1.jpg 勝海舟旧居巡り(1)は、赤坂元氷川の「勝海舟邸」。次は駿府暮しを経て再び赤坂に戻って“終の屋敷”となった「勝安芳邸」へ。さて、どこにありましょう。同邸は後に東京市に寄付~氷川小学校~廃校~特別養護老人ホーム及び子ども中高生プラザになったとか。

 迷いつつも同施設に辿り着いたが石碑が見当たらない。施設スタッフが施設右角の緑の中の石碑と案内板を教えて下さった。石碑は「史蹟 勝安芳邸阯 勝海舟伯終焉の地」。案内板には「施設内に屋敷跡の発掘調査で出土した当時の縁の品などが展示」とあったが、開館前ゆえに石碑確認のみ。

 帰宅後に改めて勝部真長「勝海舟」をひもとき、赤坂元氷川邸からの歩みを整理した。元治元年に軍艦奉行になって「勝安房守(あわのかみ)」(千葉の安房とはまったく関係なし)。明治元年に徳川慶喜の駿府暮しに従う。名を「勝安芳(やすよし)」に改名。明治政府から要職を仰せつかるが辞退を繰り返し、明治4年の廃藩置県で藩への義務が解け、明治5年に海軍大輔に就任。土地の売買が自由になって旧「勝海舟邸」近く、赤坂氷川町4の大旗本・柴田七九郎邸(2500坪)を5百両で購い、5百両で改修して腰を落ち着けた。半藤一利「それからの勝海舟」には、この地はもともと浅野内匠頭の屋敷で、それが松の廊下の刀傷で没収され、五千石の旗本屋敷になり、その旗本子孫から買い取った、とあった。勝っつぁんはここで49歳から76歳で亡くなるまで暮らした。★(追記)あららっ、昨日の勝部真長「勝海舟」掲載の古地図だが、ここにある「柴田松之丞」邸(地図の中央やや上)が、勝が買い取った「柴田七九郎」の親のような気がする。位置的にも間違いなかろう。これ、勝部さんが見落とした新発見かも。

sibatatei.jpg 勝部真長「勝海舟」序章で、著者は海舟の孫(お糸さんが産んだ逸さんの子)から勝邸の暮し詳細を訊いている。妻妾同居に加え、邸内に画家・川村清雄のアトリエ、徳富蘇峰・蘆花兄弟が住み、石碑傍の大銀杏がもっと後ろの裏門辺りにあり、勝の葬儀の記憶と写真、さらに立派な長屋門が今は石神井の三宝寺に移築されていることなどが紹介されていた。また「勝安芳邸」脇にホイトニー赤坂病院」「教会」があり、これはクララの兄のウイルスが英国で学位をとって設けた病院と教会とあった。これらは何時まであったのだろう・・・。

 あたしはデスクワークが主の“居職”で出歩くことが少ないが、24歳の時に勤めたPR会社が赤坂で、友人のカメラマン事務所、フォトエージェント、プロダクションが赤坂にあり、TBSや昔のディスコメイト(アバや因幡晃が所属)、コロムビアでの取材などそこそこに赤坂に通ってきた。しかし乃木坂通りと六本木通りに挟まれた一画を歩いたのは今回が初めて。そんな未知の界隈を巡るのもポタリングの愉しみ。涼しくなったら両国公園の勝海舟生誕地、吾妻橋の区役所うるおい広場の銅像を見に走ってみましょうかねぇ。


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