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泥舟の引き際みごと秋の寺 [幕末維新・三舟他]

deisyunohaka_1.jpg 「幕末の三舟」掃苔の最後は、上野桜木町・大雄寺の「高橋泥舟」。クスノキの大樹の隣で眠っていた。墓石裏に「執中庵殿精一貫道大居士」の戒名が読み取れた。

 噺はちょっと飛ぶ。今、新宿歴史博物館で「『蜀山人』大田南畝と江戸のまち」特別展開催中(12月4日迄)で、去る16日に関連の街歩き「江戸の文化と文人たちを訪ねて」と、記念講演「大田南畝における大江戸と風雅」に参加した。街歩きは旗ぁ~持った方の後ろにゾロゾロ歩いてゆくアレで恥ずかしかった。ボランティアの説明だから、こっちの方がよく知っていたりしたが、一方、大学教授(「大田南畝全集の編纂のひとり、揖斐教授)の講演は、学生に戻ったような楽しい充実感。来月の講演「大田南畝の狂歌活動」も予約した。

 で、言いたいことはこうだ。新宿の歴史に関心ある方は郷土史好き。そんな方々にとって、高橋泥舟が牛込矢来町で亡くなっているも、その旧居がわからぬことに関心があった。亡くなった家がわからぬのに、なぜ矢来町と流布されているか、ちょっと謎・・・。

 維新で薩長土肥は藩閥内閣をはじめ下級武士らも官職と地位を貪り競った。泥舟が守り抜いた徳川慶喜は公爵、貴族院になり、旧幕臣の勝海舟は要職歴任後に伯爵に、榎本武揚や義弟・山岡鉄舟は子爵にお成りになったが、高橋泥舟だけは潔く身を引いた。それは亡くなった家がどこかも分からぬほどの見事な隠棲で、なんという引き際の潔さよ。これぞ江戸っ子。エライねぇ~。そして旧幕臣の誰よりも長生き(69歳)した。


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