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大田南畝生家~南岳~紅葉~江見のこと [大田南畝(蜀山人)関連]

nanpotaku1_1.jpg 大田南畝「生家」探しの記事を何度かここにアップした。鈴木貞夫著「大田南畝の牛込御徒町住所考」なる研究資料に辿り着き、それによって後任御徒の「屋敷渡預絵図証文」から南畝の屋敷が特定(現在の新宿区中町36)されたことも記した。

 現在、新宿歴史博物館で開催中の<『蜀山人』大田南畝と江戸のまち>で頒布の同題冊子(千円)の冒頭「牛込御徒町」の章に、こう書かれている。・・・<明治三十九年の「新撰東京名所図会」四二篇は、北町四一番地を南畝の旧居とし、子孫で画家の大田南洋が住んでいたこと、その後、尾崎紅葉がこれを知り、明治二十三年から翌年まで住み、その後更に紅葉と同じ硯友社同人の江見水蔭が住んだことを紹介している>。同文は続いて永井荷風の大正十四年の南畝生家に関する記述を紹介し、冒頭の鈴木貞夫氏の研究による断定で結んでいる。

 前段はここまで。さて、尾崎紅葉が明治36年に亡くなるまで12年間住んだ家は「新宿区横寺町47」で、紅葉がその前に住んでいたのが眼の先の牛込中町の大田南畝旧宅で、紅葉が横寺町に転居した翌日に江見水蔭がここに入居・・・という記述が、当の江見水蔭著「自己中心 明治文壇史」にあった。これがおそらく「新撰東京名所図会」の基だろうと推測される。こんなのを探り出すとは、あたしも隅に置けない。ふふっ・・・。

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 江見水蔭の同著によるとこうだ。・・・明治23年1月5日、硯友社の新年宴会として初めての文士劇が行われた。尾崎紅葉から立作者(脚本家)に抜擢された江見水蔭が、その経緯、当日の様子、評判を振り返ったあとで、江見はこう記していた。<・・・兎に角紅葉は大学生中、既に「読売」に入社して、少しは経済もゆるやかに成ったのか、飯田町から牛込北町四一番地へ(大田蜀山人の屋敷跡で、其前まで同翁の曾孫大田南岳、書家で、先年市川で溺死した人が住んでゐたので有った。)転居してゐた。文士劇の大道具は、この北町で大概造られたので、雨戸の表には安絵具が付着して長らく落ちずにゐた。> なお江見は湘南・片瀬の貸別荘に転居する明治二十九年春までここに在住した。

 ここで明治39年刊の「新撰東京名所図会」は<南洋>で、江見水蔭は<南岳>の違いがある。大田南岳については、永井荷風が実際に逢っていて、彼の人生エピソードの数々を「礫川徜徉記」に詳しく書いてい、小生も本念寺の南岳お墓写真と共にこれを引用紹介(2011・07・11)した。それによれば大田亨(南岳)はずっと四谷在住で、大正4、5年に市川に移転。大正6年に江戸川で水死。よって、江見の同家転居は明治24年で、この江見の(其前まで同翁の曾孫大田南岳、書家で先年市川で溺死した人が住んでゐたので有った)というのは、同書刊の昭和2年の追加記述でまぎらわしい。南岳が四谷に移転後?の明治23年に紅葉が入居し、翌24年に江見が入居したのだろうか。

 そして(明治二十四年の初春)と記された「破天荒の原稿料」の章に、江見は再び同家のことを書いている。<・・・三月一日に、自分一家は、同じ北町の四十一番地に転居した。そこは紅葉が前日まで住んでゐたのだが、横寺町へ移居したので、其後へ直ぐ入ったのであった。紅葉が横寺町へ転じたのは(終焉の家)嫁取りの準備といふ事が後で知れた>。その頁にスケッチ(写真)を掲載。このスケッチには「明治二十七年十一月十一日夕写生」とあって、江見は「古日記の中に北町の住宅を背後より写生したるがあり、嘗て紅葉も住みし也 昭和二年七月 水蔭追記」が読み取れる。同書は昭和二年十月博文館刊で、同書執筆中に追記したのだろう。

  田山花袋「東京の三十年」にこんな記述がある。尾崎紅葉を訪ねる前のこと。「・・・その時分、私は牛込の納戸町にいたので、北町の通りは常に往来した。初めはそれと気がつかなかったが、Sが「紅葉は北町にいるじゃないか」と言うので、ある日、それとなく注意して歩いて見ると、長屋と長屋との間に小さな門があって、そこからずっと奥に入って行くようになっている家に、硯友社、尾崎徳太郎と蜀山人風に書いたかれの自筆が際立って目に付いた。」 小さな門というのは、御徒町組屋敷の東西にあった木戸だろう。花袋はその後、横寺町に移った新婚の尾崎紅葉を訪ね、翌日に成春社「千紫万紅」を任されて、その北町宅に入った江見水蔭を訪ねている。泉鏡花が何度か「成春社」会費徴収に花袋宅を訪ねて、江見は花袋のデビューとその後も応援し続けた。

(★花袋は牛込の富久町、納戸町、甲良町、喜久井町と転居を繰り返したのをはじめ、牛込は硯友社系文人が多く住んでいた。尾崎紅葉を慕った彼らの著作を読めば、北町辺りの記述が多い。)

(★整理すると、中町35が南畝生家。その西隣の中町35が昭和5年に宮城道雄が転居してきた家で、今は同記念館になっている。宮城道雄の著作と彼と親しかった内田百聞や佐藤春夫の著作にこの辺の記述があるやなしや。そして尾崎紅葉~江見水蔭らが大田南畝生家と得意げに語る中町41は大田南畝の遠孫・大田南岳が住んでいた旧宅・・・。これがあたしの結論)

(★千葉潤之介・優子「音に生きる~宮城道雄伝」より。◎昭和五年の七月に、道雄は牛込中町三十五番地(現新宿区中町三十五)へ引っ越している。この家は道雄が初めて買った家であり、生涯の安住の地となる家である。◎昭和十九年、中町の家は、五月二十五日の空襲でとうとう焼き払われてしまった。◎昭和二十三年五月、中町の焼け跡に新居が完成した。)★宮城道雄も関係者も隣が大田南畝の生家だったことには興味がなかったのだろう。隣の家への言及は一切ない。)

(★なお「川上音二郎・貞奴」好きの方は、江見水蔭が彼らの明治座「オセロ」脚本を担当したので、同書に記されている彼らとの交流、上演までの経緯、評判、さらには出演した永井荷風の元妻・八重=藤間静枝のことなどにご注目。)写真下は横寺町47の「尾崎紅葉旧居跡」。史跡看板の奥が紅葉が借りていた鳥居家、戦災で焼ける前は2階家で1階に泉鏡花らの弟子が起居していた。


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