SSブログ

余波なく次々詠むも俳句かな [おくのほそ道]

 芭蕉は曾良と別れて、金沢の俳人・北枝を供にするが、福井・松岡の天龍寺で彼とも別れる。ここで詠んだのが<物書て扇引さく余波(なごり)哉> 句意は、もう秋で使い慣れた扇に、いろいろ書き散らして捨てようと思ったが、名残り惜しくて引き裂けない。あなたとの別れも惜別の句まで書いたが、別れがたいことよ。

 さて、あたしは「大川で尻(けつ)を洗った」ようなサッパリ好き。人にも物にも「別れ難い」余波(なごり)の情緒が希薄らしい。ゆえに「余波」の句は出来そうもない。一日も休まずに「おくのほそ道」シリーズを続けられたのも、昨日の駄句に執着せずに、次々と日を改めたからだろう。まぁ、寝起きのひと時のお遊び・・・。

 山本健吉著「奥の細道」で芭蕉の「即興感偶」を論考してい、芭蕉の言う「即興」は「物の見えたひかり、いまだ心に消えざるうちの言ひとむべし」を引用し、「感動と表現の距離が可能な限り最短であること、それが即興だ」と記していた。その即興が軽みに通じ、季語が有す本意・本情のマンネリからも脱っする。逆にその距離が長いと、そこに作為が介在するとも記していた。かく言う芭蕉さんだが、旅を終えて5年もいじくりまわして「おくのほそ道」を完成させている。

 芭蕉さんは蕉門の多くの弟子と組織の煩わしさのなかにいて、サッパリした暮しとはとても言い難い。あたしはそもそも荷風さんの句が好きで俳句をかじったワケで、文壇とも家族と社会とも交わらずの荷風さんの句の方が、断然さっぱりしているなぁと思うわけで、このシリーズが終わったら、また荷風句に戻って行くような気がしている。


コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。