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大正13年、戸山アパッチゴルファー現る [大久保・戸山ヶ原伝説]

apache1_1.jpg 大正12年9月1日に関東大震災が襲った翌年の1月、岡本綺堂が越して来る数ヶ月前の「東京日日新聞」に左記の記事が載った。世に言われる「戸山アパッチゴルファー」の報。題して「戸山ヶ原のゴルフ老人」。写真は「戸山ゴルフクラブの花形・明石雷一氏の夫人」。本文はこうだ。

 この十数年間、雨が降らうが雪が降らうが一日として戸山ヶ原に姿を見せぬことのない鳥羽老人は、わがゴルフ界の先覚者として且運動精神を眞に體得した人として稱されてゐる。老人がゴルフに親しみ出したのは持病の心臓病で餘命幾ばくもないと医師から宣告された明治四十年の春であつた。職業柄洋服仕立ての見本に送られた写真で外人がゴルフに親しんでゐるのを見て自分も一つやつて見ようと思ひ立ち苦心の末やつとクラブと球を手に入れ病身を運んで戸山ヶ原に立つた。無論クラブのにぎり方も打球方法も知らう筈がなく、数葉の写真を参考に兎も角球を打つことを練習した。姿勢の不恰好は當時から評判もので更に~」

 この新聞コピーは、あたしが有栖川公園の都立中央図書館でマイクロフィルムをコピーしてもらったもの。全文読む機会は滅多になかろうから全部引用です。ただしコピー不鮮明にて旧字、誤字はご諒承下されたし。

 「奇妙なのは手の握り方が普通の人と全然反體に左手を前にして握る。恐らく寫眞で見た打球後の姿勢を打球前の姿勢と感(勘)ちがへして手の入れちがつたままを真似た為であらうが、癖になってしまつた氏は今に自説を固執し決して握りをかへようとはしない元々運動に素養がないから技術は遅々として進まず長年間の研究で得た結果はドライブの最長距離が三十ヤードから四十ヤード程度で、若手の後進が二三百ヤードを平気で飛ばすのにくらべると十分の一にも及ばない。ただ草中に見失はれた球を逸早くさがし出すことが大の得意でこゝとにらんだ場所には百発百中決して球から五インチと離れたことがない。併し氏の目的は技術の進歩ではなく、短命を宣告された健康状態を運動によって回復して見せようとするにあり、この目的は見事に達せられた。心臓病は一年足らずのうちに奇麗に回復して医師をおどろかせた。併しそれにもまさるよろこびは従前の悲観的な気分があかるい世界にかはり仕事の能率が倍にも三倍にも上つたことだ。斯うして運動の有難味を体験した氏は十数年間一日も欠かさず起き抜けに原野に現れあけの烏や早起きの茶屋の婆さんをおどろかせながら日に三時間野原のかなたこなたと球を打ちまはった。最近この老運動家を中心に新しいゴルフ倶楽部が生まれたが、保土ヶ谷や駒沢のリンクが五百圓から千圓の入會金を〇しブルジョア気分をほこつてゐるに對しこの倶楽部は何こまでも地味に運動愛好の初心者を集めゴルフをもつと一般的なものにしようとしてゐる。なお入會希望者は市外戸塚町諏訪〇〇方ゴルフ倶楽部へ連絡すれば誰でも歓迎するとのこと。」

 なお、井上勝純著「ゴルフ、その神秘な起源」によると、鳥羽老人の姿を認めた洋行帰りの同好の士らが次々に加わって、次第にシュートコースが出来たとか。また球拾い名人は鳥羽老人ではなく原老人で、当時のボールは新品で1個2円(今日の1万円)也。ここで生まれた「戸山ヶ原ゴルフ倶楽部」の発会式は同月13日に行なわれ、会員80名が参加したとある。陸軍練兵場の兵隊がいない時間にもぐり込んでプレイする訳で、称して戸山ヶ原のアパッチゴルファー。しかし人数が多く、かつ大っぴらにやられるようになって、陸軍もついに黙認できずにゴルフ禁止と相成った。締め出された同倶楽部員たちは、やがて「武蔵野カンツリー倶楽部」設立に動き出すことになる・・・と書かれていた。

 大久保・戸山ヶ原は大衆ゴルフ発祥の地でもあったんですねぇ。多くの画家がスケッチをし、文士が散歩をし、時に梅屋庄吉の映画会社が野外撮影をした大正時代の戸山ヶ原でした。


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