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佐藤邸大逆事件の翳も秘め(佐藤邸2) [佐藤春夫関連]

ireihi1_1.jpg 川本三郎「大正幻影」は、佐藤春夫論といっても過言ではないだろう。「佐藤春夫が大逆事件に衝撃を受けなかった筈はない。刑死した大石誠之助は同郷(和歌山)の先輩だったのだから。佐藤春夫は大石誠之助を唱った詩「愚者の死」を書いてアイロニカルに強権への憤りを表明したが、しかしその憤りはついにストレートな形をとることなく、やがて視線をビーダーマイヤー的な小宇宙へと移していった」

 川本は見逃したか、気付かなかったか。佐藤邸の設計は、文化学院の創立者にして建築家、画家、陶芸家の西村伊作の弟・大石七分である。伊作・七分兄弟の叔父が大石誠之助。叔父は米国から帰国後にクリスチャンの“赤ひげ先生”的医者で、生活改善などを訴える過程で社会主義者への弾圧「大逆事件」に巻き込まれ、明治44年に処刑された12名の一人。和歌山県の小さな田舎町から刑死者が出て、佐藤春夫は同郷どころか、肌も震える怖さを感じていたはず。この時、春夫、19歳。彼の父もまた医者で親同士の交流もあったろう。伊作・七分の兩兄弟からも強い影響を受けつつ青年期を過ごしていたのではなかろうか。

 川本三郎が記す「ビーダーマイヤー的」を簡単に説明すれば、歴史の動きに眼をそむけ、身近な微細なものをとらえようとすることらしい。川本は「佐藤春夫は強権、官憲に眼をそむけて建物、調度品、植物に関心を注ぎ、幻影の世界に分け入ったのではないか」と指摘する。同じ世代の谷崎潤一郎も芥川龍之介も現実世界とは別の幻影の世界を夢みようとしていたと記す。大正幻影、大正ロマン、大正モダンなる言葉がチラつく。

yocyocyo_1.jpg 「世に眼をそむける」という意では佐藤春夫、芥川龍之介より13歳上、谷崎潤一郎より4歳上の永井荷風も同じだ。彼は32歳の時に自宅・余丁町から慶応義塾へ出勤途中に、目の先の市ヶ谷刑務所(東京監獄)を出入りする大逆事件の囚人馬車を見ていたし、間近の刑務所で12名の処刑が執行された。荷風は、文学者でありながら何も発言できぬことを恥じて「花火」にこう書いた。

 「自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに如くはないと思案した。その頃からわたしは煙草入れをさげ浮世絵を集め三味線をひきはじめた」。

 その荷風が谷崎潤一郎を激賞し、佐藤春夫は荷風を師と仰いだ。川本三郎が指摘するように、佐藤春夫は現実から眼をそむけて建築、調度品、花に没頭して、かくなる家を建てたのか。いや、まだそれでは説明が足らぬだろう。(続く)

 ★写真下は、抜弁天から曙橋へ下る「余丁町通り」。写真右の木々が「余丁町児童公園」の入口で、その奥続きの「富久町児童公園」の片隅に「東京監獄 市ヶ谷刑務所 刑死者慰霊塔」(冒頭写真)が、忘れ去られたようにひっそり建っていた。この碑には説明文が一切なく、ただ「昭和三十九年七月十五日建立 日本弁護士連合会」とあるだけ。野田宇太郎著「改稿東京文学散歩」には「これでは一般の刑死者慰霊塔としか思えないが、それが幸徳事件の処刑者の慰霊塔であることはいうまでもない。そのことを何故刻まなかったのだろうか」と記し、「幸徳秋水をはじめ、大石誠之助その他は社会主義というだけで、事件とは直接関係がなかったのも事実である。ただ社会主義は天皇制を危くする思想として、その指導的人物が理不尽にも無実の罪名を被せられて殺された恐怖的事件であった」と結んでいる。写真の「余丁町通り」先方左側に永井荷風旧居がある。(続く)


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