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大久保の佐藤春夫と大杉栄(佐藤邸3) [佐藤春夫関連]

satouharuohon1_1.jpg 佐藤春夫邸の設計者・大石七分の叔父は大逆事件で処刑された。七分もまた憲兵大尉・甘粕正彦に殺害された大杉栄と生活を共にしたことがあったとか。佐藤春夫はそうした危険で勇気ある男たち(当時の社会主義者、無政府主義者)に眼を逸らして、夢想の世界だけに生きてきたのだろうか。

 そう思って佐藤春夫全集・第11巻をひもとけば「吾が回想する大杉栄」なる随筆があった。「新家庭を大久保に移したころのこと」の書き出し。これを調べてみれば、彼は大正4年8月から翌5年5月まで「大久保町大字西大久保403」に住んだとあった。現・大久保2、3丁目辺り。女優・川路歌子と同棲中で、神奈川・中里村へ移るまでの時期だろう。

 大杉栄は伊藤野枝と甥の橘宗一(6歳)と共に憲兵・甘粕に連行されて殺害されたが、連行された地が新宿・柏木の自宅近くは周知のこと。だが佐藤春夫の同文によれば、大杉もまた大久保に住んでいたと書いてあった。これも調べれば、柏木の自宅はフランスから帰国後のことで、1912年(明治45年・大正元年)に鎌倉より大久保百人町353番地(現在の百人町)で暮していたらしい。共にご近所同士。ははっ、あたしんチの近所だぁ。

 佐藤春夫の大久保の家には、新進作家・荒川義央が居候してい、彼は堺利彦を「おやぢ」と言い、大杉栄に心酔していた。荒川が毎日のように大杉宅に寄っていたことで、佐藤も大杉も互いの家を行き来した。そんな或る日、同じく大久保在住の加藤朝鳥(翻訳・文芸評論家)と共に大杉宅で文学論を交わした。加藤が「日本の小説はもっと社会的意識を覚醒させねばならぬ」と言い、佐藤はこう反論した。「四十五十になってつぶさに世相を見てこそ、社会的の観察も正確になる。普通の境涯の青年作家に出来ることは、先づ詩人的なロマンティシズムの情熱か、一人の主人公を取扱った心理的なものであるのが当然である。社会的意識から生れるいい小説といふのものは結局もう少し気永く待たないでは、反ってつけ焼刃にすぎないだらう」。彼にそう思わせた教訓的な何かがあったような気がしてならない。この時、大杉は「うむ」とだけ言った、と書いている。

kasawagiatari_1.jpg この年、佐藤春夫は二科展に「自画像」「静物」が入選。その2年後に、あの「西班牙犬の家」を発表。内面的な自己批判の心理小説ではなく、まずは絵を描くように夢想の洋館を細部描写して新たな小説をものにした。その前年に書いた「薔薇」も洋館登場とかで、彼のなにやら尋常ではない洋館的住宅へのこだわりが垣間見える。(続く)

 とまれ、明治末から大正時代に社会主義、無政府主義、アジア主義の男たち、そして若き作家らの多くが大久保在住だったことも再確認できた。写真は大杉栄が憲兵・甘粕に連行された新宿・柏木の自宅辺り。隣に文芸評論の内田魯庵が住んでい、その日、魯庵夫人は大杉栄と伊藤野枝が外出する姿を裏庭から見ていた。また大杉・魯庵宅の西側が西条八十旧宅。八十の父はこの辺の大地主で、百人町の撮影所付き梅屋庄吉邸も西条八十の父から土地を買っている。


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