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春夫と潤一郎の最晩年(佐藤邸付記) [佐藤春夫関連]

 佐藤春夫邸を拝見した時に、道路を渡った向こう側に目白台アパート(現・目白台ハイツ)があった。ここに谷崎潤一郎が約10ヶ月の仮住まいをしたのが昭和38年、78歳の時だった。眼の前の佐藤邸では亡くなる1年前の71歳の佐藤春夫がいた。その33年前のこと、谷崎・佐藤・千代子の三人連名による挨拶状(細君譲渡事件・昭和5年)を「あまりに可笑しければ」と荷風さんが「断腸亭日乗」に書き写している。さっそく、その日記をひもといてみた。

「拝啓。炎暑之候尊堂益(ますます)御清栄奉慶賀候。陳者(のぶれば)、我ら三人この度合議を以て千代ハ潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成、潤一郎娘鮎子ハ母と同居致すべく、素(もと)より双方交際の儀ハ従前の通につき右御諒承の上一層のご厚誼を賜たく、何(いず)れ相当仲人を立て御披露に可及(およぶべく)候へども不取敢以寸楮(とりあえずすんちょをもって)御通知申上候。敬具。昭和五年八月」

 さて、潤一郎は目白台アパートに来る前年に「瘋癲老人日記」を完成。同作は狭心症と老いに蝕まれた老人が、息子の嫁の颯子の足を舐めまわすなど痴呆化した異常性欲を晒す内容で、まさに変態・潤一郎の真骨頂発揮作。同作を仕上げ、自身の心臓発作予防に全冷暖房の家(湯河原)を着工。その家が完成するまでの約10ヵ月の目白台暮し。このアパートに決めたのは、昭和35年に次女・恵美子(松子夫人の連れ子)が、観世栄夫と結婚して、ここに暮していたため。

takatobasi1_1.jpg 目白台では一日30分ほどの散歩が体にも呆け防止にもいいってことで、潤一郎は毎日のようにすぐ傍の江戸川公園、新江戸川公園を散歩した。元気がいい時は孫と、調子が悪ければ車に乗って公園まで通ったらしい。同アパートに住んでいた瀬戸内晴美(寂聴)が、雑誌対談で「すごい大きな自動車が毎朝お迎えにきて、谷崎先生と奥さんを乗せて、目白台のすぐ下が江戸川公園で歩いても一分とかからない。それを公園まで自動車でわざわざ遠まわりなさってお二人でそこらを散歩して、また自動車に乗って帰ってくる」と語っている。

 翌年5月6日。目白台の佐藤邸では、72歳の佐藤春夫が心筋梗塞で死去。その二ヶ月後に、潤一郎は目白台アパートを去り、完成した湯河原「湘碧山房」に移った。彼もまた、その1年後、昭和40年7月30日、80歳で死去。共に葬儀は青山斎場。

 追記挿入:瀬戸内寂聴が入った目白台アパートの部屋の最初の入居者は嵯峨三智子とアイ・ジョージで、二人の愛の巣だったとか。(平成24年11月28日の東京新聞、同氏エッセイ「足あと」にそう書いてあった。) あたしはアイ・ジョージに「忙しい先生」なぁ~んておだてられて仕事をしたことがあるも、ノーギャラでおわったことがあった。

 あたしにとって江戸川公園は散歩圏内。しかも公園沿い神田川のちょい上流(写真のマンションの15畳程のルームバルコニー付き〇号室)に住んでいたこともあり、最晩年のお二人がこの辺を散歩していたかと思うと、ちょっと身近に感じてしまった。目白台から坂を下る途中の「関口フランスパン」に寄って家に帰った。(続く)


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