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佐藤春夫のランブラー [新宿発ポタリング]

 志賀直哉が「切支丹坂」を自転車「ランブラー」で下ったのは有名な話だが、なんと佐藤春夫も「ランブラー」に乗っていた。「わんぱく時代」(昭和33年発表)に、こう書かれていた。明治34年、満9歳。和歌山の新宮第一尋常小学校4年で来年から高等小学校へ。

 「僕の父はその二、三年前から、往診に自転車を利用してゐた。(略:橋板にぶつかって故障)。その後、自転車は破損を直したまま、しばらく捨ておいてあったのを、僕は夏休みのたいくつまぎれにひっぱり出した。父の車は<ランブラー>といって車体はエビ茶にぬられてゐた。まだ国産車の広くは出なかったころ、一般には貴重品あつかひされた時代で、町では、めづらしいもの好きな父の一台のほかはなかったと思ふ。もっともほんの二、三年のうちに町でも一般に大流行になった。そのころになっても、父の車は車体こそふるびてしまってゐたが、機械はまだしっかりして、四、五年は僕の愛用にたへるものであった」

 ランブラー(Rambler)はアメリカ製。志賀直哉は明治28年頃、10円あれば一ヶ月暮せた時代に、160円のデイトナという自転車を祖父にせがんで、自転車狂になった。それが痛んで、下取りに出してランブラーを買った。明治35年には、そのランブラーで中村春吉が世界無銭旅行に出発している。

 「はじめは辰吉(車夫)にサドルを持って歩いてもらったが、やがて坂の道でサドルを一押ししてもらふと・・・(略)。足はまだペダルにとどかないが、背のびして無理に踏んでひとりでに乗れるやうになると、坂から広場に出た」

 間もなく佐藤少年は満10歳になって高等小学校に入る。身長も伸び、自転車乗りも上達して小学校の一周約100㍍の運動場を50周もできるようになる。サドルの上で中腰で立ったり、ハンドルの方に背中を向けた逆乗りもできるようになった。高等小学校2年を好成績で終了して中学校へ。遠い中学には時に自転車で行った。

 「父のランブラーはほとんど乗りつぶしてその中古と交換に<ピアス>の総ニッケルといふ最高級の軽快なのを買ってもらつてゐた」。「自転車は小使小屋のわきにおつぽり出しておいたが、それをさへ盗まれる心配のないほど町はまだ純朴であった」。 この<ピアス>もアメリカ製で、明治33年に絹織物などを輸出入する貿易業の石川商会が、横浜本店を新築した時に初めて輸入した自転車。同商会は後に「丸石自転車」になる。

 佐藤春夫が新宮中学を卒業して慶応義塾大学予科文学部に入学したのは明治43年。神田須田町で「大逆事件の逆徒判決の号外」で、新宮で父の医者仲間・大石誠之助の死刑に驚愕する。★参考は佐藤春夫「わんぱく時代」、志賀直哉「自転車」、「自転車文化センター」?のサイト。


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