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瀬戸内寂聴「諧調は偽りなり」(その5) [読書・言葉備忘録]

 甘粕憲兵大尉は懲役10年の判決だったが、なぜか大正15年、2年10ヶ月で出所。甘粕は妻を伴ってフランス(留学)へ旅立った。費用は陸軍から受け取った。やはり「裏」があったとしか考えられぬ。彼は昭和5年に帰国後、満州へ渡って関東軍を背景に特務工作などで暗躍し、影の支配者的存在になる。最期の肩書は「満州映画協会理事長」。昭和20年にロシアが攻め込んで来る直前に青酸カリで自殺。辞世句は「大ばくち身ぐるみ脱いですってんてん」。その「大ばくち」が「甘粕事件」から満州事変~関東軍暴走~満州国設立なら、それによって命を落とした人々の数知れず。

 話を「甘粕事件」に戻そう。大杉栄・伊藤野枝・橘宗一君の虐殺から53年後、甘粕自決から31年後の昭和51年8月26日「朝日新聞」に、当時の「死因鑑定書」が発見された報が載った。これは事件の解剖命令が鷹津軍医正に下ったそうだが、鷹津少尉は病理学専攻で実際は田中軍医正が担当。「死亡鑑定書」の一部を鷹津軍医正の名を記して提出し、もう一通を田中軍医正夫人に預けたことで、これが世に出てきたもの。大杉栄著「自叙伝/日本脱出記」(岩波文庫)1982年の第10刷が手許にあるが、解説に「死因鑑定書」のことが追記されていた。

 同鑑定書によると大杉・野枝共に胸骨完全骨折なる「頗ル強ナル外力(蹴ル、踏ミツケル等」を加えられたのち「前頸部ヲ鈍体ヲ以テ絞圧」されたことが判明。これで当時の供述も公判もすべてが偽りだったことが分かった。偽りと分かったが、詳細は不明・・・。大杉栄38歳、伊藤野枝28歳、橘宗一6歳のお墓は静岡県・沓谷霊園に。もうひとつ宗一君のお墓は名古屋にあって、今も墓前で彼らを偲ぶ会が持たれているとか。

 瀬戸内寂聴「諧調は偽りなり」は大杉・野枝の人生を軸に、同時代の多くの人々の人生を絡み描いて、大正のもうひとつの顔を描いていた。大正わずか15年。大正デモクラシー、大正ロマン(浪漫)、大正モダン・・・。これらは民主主義、自由主義、個人の解放、女性の自立や主張、都市化、技術革新、メディア発達など新しい時代を象徴した言葉だろうが、その裏に帝国日本、軍国主義偏向の経緯があって、至るところで不条理、歪みがあったということだろう。考えるまでもなく団塊世代あたりの両親は、明治末から大正生まれ・育ち。大正の底は限りなく深く、読書はこの時代を描いたものが断然おもしろい。(おわり)

 ★瀬戸内寂聴「諧調は偽りなり」を読んだ後に、図書館で当時(明治中期~大正)の新聞縮刷版をひもとく面白さも知った。伊豆大島に大正13年発行「島の新聞」があった、ひょんなことからお借りすることが出来て、コピー・製本でタブロイド版で分厚い5冊を所蔵している。これをひもとく楽しさは格別だ。図書館には各紙縮刷版が揃っていよう。で、うれしいことに新宿中央図書館が、なんだか来年か再来年に我が家近所の廃校跡にメディア云々のハイカラな名称になって移転してくるらしいのだ。あたしの老後の姿が見えてくるね。婆さんの「今日も図書館かえ。美味しいコーヒーをポットに入れておきましたから持って行きなさいよ」。なぁ~んて声に送り出されて図書館入りびたり。


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