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東京湾汽船・霊岸島発着場(1) [週末大島暮し]

reiganjima1_1.jpg 加藤郁乎「俳人荷風」シリーズがちょっとくたびれたので、気分を変えて「東京湾汽船の霊岸島発着場」調べ。かつて伊豆大島の歴史、東海汽船の歴史を調べたことがあるも、同社前身・東京湾汽船の霊岸島発着場がどこに、どのようにあったかズッと気になっていたんです。

 まずは永井荷風「訪問者」。妻子がいるも作家を夢見る白井が、隣の後家・常子(蛇屋の娘)との愛欲の隠れ家を、越前堀はお岩稲荷の横町二階に設けてい、そこに荷風さんが訪ねる場面あり。ちょっと円朝の怪奇噺のよう。 「それは煙草屋の二階で、簾がさげてあったり、植木鉢が置いてあったり、三味線の音が聞えたりしてまんざらではない処。目の前の大川の倉庫先は大嶋へ行く汽船乗り場で、片側にさびれた宿屋が四五軒~」。 えぇ、それは間違いなく東京湾汽船の霊岸島発着場じゃないか。

 同じく荷風『冬の蠅』の「町中の月」。・・・わたくしが月を見ながら歩く道順は、佃のわたし場から湊町の河岸に沿ひ、やがて稲荷橋(鉄砲洲通りにあって、すでに埋立られている)から其向ひの南高橋をわたり、越前堀の物揚場に出る。(略)。この河口は江戸時代から大きな船の碇泊した港で、今日でも東京湾汽船會社の桟橋と、船客の待合所とが設けられ、大嶋行きの汽船がこの河筋ではあたりを圧倒するほど偉大な船體と檣と烟突とを空中に聳やかしてゐる。

 ここまでわかって現・中央区新川辺り(写真上が現地図。「現在地」印がちょうど発着場)の歴史調べ。江戸時代に越前福井藩主・松平越前守の屋敷地があり、三方が入り堀に囲まれていたことから越前堀。また明暦3年の江戸大火で焼失するまで霊厳寺があって、同寺はその後に深川へ移転。深川の霊厳寺は知っていて、「でも深川に東京湾汽船の発着場って云うのはおかしいよなぁ」と思っていたが、これで納得なり。そう、お岩稲荷だって本当は新宿・四谷でしょ。これも明治はじめに歌舞伎役者らが芝居小屋近くにも欲しいってんで建てたとか。

edokounohi_1.jpg さて、この地の隅田川テラスに「江戸港発祥跡」(写真下)の碑があるとか。「慶長年間江戸幕府がこの地に江戸港を築港してより、水運の中心地として江戸の経済を支えていた。昭和11年まで伊豆七島など諸国への航路の出発点としてにぎわった」と書かれている。

 gooの地図検索「古地図」で中央区・明治を見れば、そこに「東京湾汽船會社」の文字しかとあり。同社は既存4社併合で明治22年(1889)11月設立。住所は旧京橋区新船町将監河岸。当時はこの辺を将監河岸とも言ったとか。これで概要がわかった。当時の絵、写真でも確認してみたい・・・。(続く)


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