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東京湾汽船・霊岸島発着場(2) [週末大島暮し]

jyoukisen_1.jpg 新たな知識を得て、再びネット検索。中央区立図書館の資料で齋藤むさし作・木版画2点がヒット。「明治の車蒸気船の図 東京湾汽船霊岸島発着場」。同木版画を私流模倣スケッチ(写真上)。木製桟橋が伸びて、水車状推進機の船舶。この船で外洋に出るにはちょっと不安。房州行「東京~館山」航路の船だろうか。

 もう1点は「昭和11年2月4日 東京湾汽船霊岸島発着場の火事」。これは画面いっぱいに炎と煙で、建物や桟橋の様子がよくわからぬ。 大島観光は昭和3年『波浮の港』でブームになり、翌年「東京~波浮」の日航開始。昭和9年の大島観光客は年間21万2千人。「葵丸」に次ぎ昭和10年6月に「橘丸」就航。その直後に火事があったのだろう。

toukyouwan3_1.jpg 「江戸港発祥跡」史跡にも「昭和11年まで伊豆七島など諸国への航路があった」と過去形。その後に月島、芝浦埠頭に移ったか。昭和12年、日中戦争とインフレで同社経営逼迫。昭和16年に東海汽船となり、昭和28年に現在の芝浦桟橋完成。

 そして写真が1点。これも私流模写スケッチ(左)。建物の壁に「房州行」「八丈島行」の文字看板と人力車が写っているが、アップ写真ゆえ全貌がわからない。

 霊岸島発着場がここまでわかるも、未だハッキリせぬ。そうだ、小説を書くにあたって作品舞台を入念調べする荷風さんがいるじゃないかと「断腸亭日乗」を改めてひもといた。「あった、あった」。火事寸前の昭和10年10月29日に、なんと東京湾汽船の待合所、新造船を描いたスケッチ入り(写真下)記述があり。「水上に大きな汽船の泛べるを人に問えば大島通ひの新造船にして四千五百トンなりと云ふ」。

reiganjima2_1_1.jpg スケッチの待合所らしき建物裏に新造船が描かれている。「橘丸」は昭和10年6月3日に霊岸島から初航海。このスケッチと文は「橘丸」に間違いない。小生が中学の大島遠足で乗ったのも「橘丸」だった。同船は1772トンで、荷風さんの4500トンは聞き間違いだろう。

 ずいぶん大きく間違えたなぁと思ったら、これまた驚きの新事実を知った。今、東海汽船では4500トンならぬ5700トンの新造船を平成26年6月完成予定で造っていて、これを懐かしの「橘丸」に命名するとか。

 ★追記1:当時の『島の新聞』をひもとけば、東京湾汽船の発着場は昭和11年11月29日号まで「越前堀」の告知で、次号の12月6日号から「芝浦」に変わっていた。「芝浦桟橋御案内」として★市電芝浦二丁目又は札の辻で下車 ★省線、田町駅裏口及び市電芝橋よりバスあり金五銭・・・とあった。また翌12年1月に「大島・元村桟橋工事着工」の記事あり。

 ★追記2:昭和11年11月8日「島の新聞」は東京湾汽船、芝浦新築移転披露の特集だった。一面は同新築社屋と桟橋の組み写真、2面に社長、横山東京府知事、牛塚東京市長はじめの祝辞が全文掲載。この項の締め括りとして、後日に改めて(3)として記す。


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