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佐野眞一『てっぺん野郎』(1) [読書・言葉備忘録]

teppenyaro_1.jpg 今年最初の「読書備忘録」は、「日本維新の会」代表の暴走老人の評伝、佐野眞一『てっぺん野郎~本人も知らなかった石原慎太郎』(講談社・平成15年刊)。都知事2期目再選後の出版か。

 昨年10月、石原知事は4期目任期を残し、知事辞職表明直前の定例記者会見(「YouTube」を見た)で、橋下徹の出自を記した佐野眞一「週刊朝日」連載に対し「佐野は卑劣で許し難い男だ。僕も被害にあった」と語り、おそらく猪瀬直樹メモだろうを見ながら、文章の盗用例を次々にあげていた。その取材被害というのが、この書だろう。

 佐野眞一は、いつもながら出自調べから入る。以下、その概要。慎太郎の父・潔は愛媛県八幡浜隣接の長浜(現・大洲市)生まれ。郷里に立志伝的出世の海運王・山下亀三郎がいた。山下汽船は大学出と丁稚上がりを育成で、潔は14歳で「店童」(=丁稚)入社。2年間無給で掃除や使い走り。門司や台湾支店、2年兵役、神戸本店、東京支店と転勤出世。ここでの不祥事で、大正13年(1924)に小樽支店へ飛ばされた。小樽から樺太の木材集積・海運に従事。

 当時の小樽は、小林多喜二『蟹工船』と同じく劣悪な環境で働く労働者と彼らに身体を売る女たちで支えられていた。佐野眞一は名もなき荷役労働殉職者、女郎らの慰霊碑を訪ねるなど、当時の小樽状況を入念に取材。潔はそれら労働者を率いて、樺太での木材積込みの現場監督をしていたらしい。

 ちなみに当時の樺太には王子製紙パルプ工場が幾つもあった。これは原敬配下の官僚・三島由紀夫の祖父・平岡定太郎が明治41年に樺太庁長官となり、彼の勧めで三井物産・藤井銀次郎が王子製紙社長になって興した事業。その辺を詳細レポートしたのが猪瀬直樹著『ペルソナ』で、彼は平岡定太郎の足跡を求めて樺太を訪ねている。そして佐野眞一もまた石原慎太郎の父・潔の足跡、当時の木材積出しの痕跡を求めて樺太に渡っている。

  両者の樺太取材を読み比べてみると、まぁ、双子のように似た記述だが、猪瀬直樹と佐野眞一はいつからこんなに仲違いしちゃったんだろう。昨年10月の猪瀬ツイッターの執拗な佐野攻撃はちょっと病的なものさえ感じる。猪瀬がそこまで佐野嫌いになった原因、経緯はなんだったのか。一方、猪瀬好きの人はと見渡せば、彼を「道路公団民営化」で使った小泉純一郎と、東京都副知事に起用した石原慎太郎くらいで、逆に猪瀬嫌いは佐高信、櫻井よしこをはじめとても多そう。気になるところです。

 話しは慎太郎の父・潔に戻る。彼は昭和3年に神戸に戻って結婚。一子をもうけるも妻死別。加藤光子と再婚して慎太郎、裕次郎を産み、昭和11年に一家で再び小樽赴任。慎太郎4歳、裕次郎1歳だった。潔最初の赴任時は、本州のパルプ100%が樺太材も、昭和18年に3%に落ち込み、石原一家も小樽を去った。

 潔は山下汽船東京支店副長となって、一家は山下亀三郎の葉山別荘で暮す。それも束の間、東京空襲で避難の東大教授に別荘を明け渡し、山下家女中頭の家に移転。ここで慎太郎、裕次郎の湘南ボーイの青春が始まる。以後は裕次郎がらみ逸話の数々で周知のこと多く割愛・・・。(続く)


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