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猪瀬直樹『ミカドの肖像』(1)捨象されぬ記述 [『ミカドの肖像』]

mikado1_1.jpg 「文は人なり」。人間に魅力がないと文章もつまらん。何頁か読むと欠伸が出た。その都度、関連書を読むなどして仕切り直し、再び読み始めた。そんな繰り返しで、なんとか読了。

 まず佐高信『自分を売る男、猪瀬直樹』冒頭の『ミカドの肖像』についての記述をひく。・・・猪瀬は大宅壮一ノンフィクション賞がほしかった。ほしくて仕方がなかった。そこで同賞の選考委員だった本田靖春に接近した。そして見事に籠絡することに成功したのである。その結果、猪瀬の『ミカドの肖像』を受賞作に推してしまう。

 私は『ミカドの肖像』を「皇居のまわりをジョギングしているだけ」と批判したのだが、立花隆も「この作品の中心は空虚である」と批判している。(中略)。本田は後年、遺作となった『我、拗ね者として生涯を閉ず』(講談社)にも猪瀬批判を書いた。そして、猪瀬の作品を大宅賞に推したことを恥じて、間違いだった、とも言っていた。(同書未読。本当にそんな事が書かれているのだろうか。読んでみる必要がありそうだ。★『ミカドの肖像』(6)で紹介。

 佐高信は自著『現代を読む~一〇〇冊のノンフィクション』(岩波新書)にも同書を入れていない。もう少し公平な書評が他にないかしらと見わたせば、「同時代ノンフィクション選書」第8巻「現代史の死角」(文藝春秋、平成5年刊)の柳田邦男の解説があった。

nonfic_1.jpg ・・・ルポルタージュでもない。あらゆる大小のエピソード、データ、さして意味のなさそうないくつかの出来事のシンクロニシティ(共時性)、人物紹介、場所や建築物のいわく因縁、文化文芸の説明、ビジネスの収支決算、等々、捨象されることなく、一千枚のなかに放り込まれている。そのこと自体がミカドの国のパロディなのかもしれない。

 この文章を吟味すれば、<捨象されぬことなく>とは、「書こうとする概念に焦点が定まらぬ曖昧さのまま」、つまりミカドの存在と同じく曖昧、空虚な書、という痛烈な批判を含んで、佐高や立花評と同じ指摘のようでもある。あたしがもっと正しく言えば「一千枚のなかに」ではなく、「捨象されぬままの記述をだらだらと一千枚も書き連ねて」だろう。「読めば欠伸」は誰もの感想だろう。

 あたしの結論から先に記す。「第Ⅲ部 心象風景のなかの天皇」の最終章「複製技術革命の時代」から「エピローグ」を読めば充分で、あとはあたしのように隠居のボケ防止と、暇つぶす他にすることがなくなったら、残る11/12を拾い読めばいいように思った。(続く)。


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