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猪瀬直樹『ミカドの肖像』(4)新宿御苑9ホール [『ミカドの肖像』]

gyoengolf2_1.jpg 以下、田代靖尚著『昭和天皇のゴルフ』備忘メモ。

 昭和天皇が初めてクラブを握ったのは大正6年。場所は高輪の東宮仮御所。頑強とは言えぬゆえ心身鍛錬として勧められた。(当ブログ「戸山ヶ原伝説」登場の「戸山アパッチゴルファー」の鳥羽老人も健康のために明治末よりゴルフを開始。これまたゴルフ史の貴重な一コマ。)

 日本最初のコースは明治36年に六甲に造られた「神戸ゴルフ倶楽部」。(小生、縁あって今は亡き夏坂健さん、児玉清さんとまわった)。関東最初のコースは大正3年開場の現・駒沢オリンピック公園の「東京ゴルフ倶楽部」。

 昭和天皇の初ラウンドは「箱根仙石原コース」で、同年に沼津御用邸近く、田子の浦に砂浜リンクスを造って練習。大正10年に外遊。パリ郊外のコースでプレイ。帰国後の大正11年に新宿御苑に皇室専用の9ホール(1736ヤード、パー32)が完成。田代著には新宿御苑のガイドマップ上に当時のコースが書き込まれていたので、あたしも真似をした。(写真) 追記★2013年5月29日の東京新聞「東京トリビア」では、上記ホールとは別の、新宿門まで伸びる9ホールが紹介されていた。皇室自前の庭なら好きなように変更できようゆえ、さまざまとコース・アレンジされたと推測してもよさそうです。

 同年、英国エドワード皇太子がお召艦「レナウン」、供奉艦「ダーバン」で来日。駒沢ゴルフ倶楽部で日英皇太子が「フォーボール・ベスト」を楽しまれた。裕仁皇太子の第1打はトップでチョロ、は余りに有名。猪瀬直樹『ミカドの肖像』には、裕仁皇太子組に高木秀寛が、英国皇太子組に西園寺公一が(キャディに)付いた、との記述があるが、おやおや、他の二人は自分でバッグを持ったのか。そりゃ、間違いだろう。

 「フォアボール」は4名プレイゆえキャディは4名。裕仁皇太子に高木秀寛が、大谷光明に西園寺公一が付き、英国側には英国随行員の二人が付くが正しい。田代著にもそう書かれている。『昭和天皇のゴルフ』表紙写真(3に掲載)は、その時の昭和天皇ショット姿。

 新宿御苑コース完成後の大正14年に赤坂離宮(現・迎賓館)に6コース、那須御用邸に9ホール、皇居吹上御所に9ホールと次々に造成。昭和天皇がいかにゴルフ好きだったかが伺える。(大谷光明もお寺に隠しショートコースを造っていたと、何かで読んだ。本願寺派の坊さんに大谷光明の日英皇太子ゴルフの話をすると、皆、狐につままれたような顔をするから面白い。)

 大正12年12月16日、新宿御苑で午前、午後のプレイを楽しまれた11日後に、難波大助によるステッキ銃の昭和天皇狙撃の「虎の門事件」。(大逆罪適用で死刑判決二日後に処刑/田中伸尚著『大逆事件』より)。それでもゴルフを止めぬ昭和天皇だったが、昭和12年7月の蘆溝橋事件勃発に怒りを込めて「ゴルフは止める」。吹上御所コースの手入れも止めさせて、趣味を植物に変えたとか。

 なお、「虎の門事件」当時の警視庁警務部長が正力松太郎。免官された彼は、36年後の長嶋ホームランの天覧試合で、この汚辱を晴らす。このシーンから書き出すのが佐野眞一『巨怪伝』。猪瀬直樹には遥か及ばぬ筆力、取材力でグイグイを引き込み読ませてくれる。


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