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猪瀬直樹『ミカドの肖像』(9)GHQと忠臣蔵 [『ミカドの肖像』]

syono1_1.jpg 大逆事件については、すでに「佐藤春夫関連」や「読書備忘録」で記した。ここでは猪瀬直樹『ミカドの肖像』をもおっ放って、自前<日本の喜歌劇『ミカド』>を記す。調べるたって、小一時間ほど。隠居の早起き“朝飯前”の遊び。

 庄野潤三『サヴォイ・オペラ』の「あとがき」に、・・・(『ミカド』は有名な作品だが)日本では戦前に上演されなかった。また、昔は日本の皇族が英国を訪問している間は、一切上演はまかりならぬという習慣があり、どんなに反対の声が上ろうがイギリス政府は態度を変えなかったといわれる。戦後、長門美保歌劇団がこれを取り上げ、十八番の演目として連続上演していたから、ご覧になった方もいるかもしれない。

 「ゲゲッ」。長門美保といえば『愛馬進軍歌』や『出征兵士を送る歌』など大政翼賛会系大ヒット歌手。その彼女がなぜ『ミカド』を? それは何処で?

syonimikado1_1.jpg 次はネット調べ。大澤吉博著『言語のあいだを読む:日・英・韓の比較文学』(思文閣出版、2010年刊、定価9450円)の336頁、<我見と離見~杉村楚人冠の英国旅行記と「ミカド」>の章がヒットした。なんと、長門美保歌劇団の『ミカド』上演はGHQ、歌舞伎上演の許可がらみとあった。

 ・・・戦後、松竹(株)が『忠臣蔵』を上演したかったがGHQが禁止していた。徐々に歌舞伎への理解が得られて、ならば『ミカド』と抱き合わせなら『忠臣蔵』を上演してもいいと許可した。そこで松竹(株)は長門美保歌劇研究所に『ミカド』上演を依頼。昭和22年6月、東京劇場での上演は著作権の問題から舞台稽古という形で米軍夫人たちが目にしただけで、昭和23年1月29日の日比谷公会堂公演も、進駐軍の兵士及びその夫人に見せるためのものだった。

 筆者は続いて、・・・タブーとされていた『ミカド』だが、その内容は国辱的なものではなく、当時の英国への風刺だと内容を説明。また「東京劇場」初演五ヶ月後には、念願の『仮名手忠臣蔵』通し上演が許可されたと記していた。

 「東京劇場」(東劇)は、築地は万世橋際。歌舞伎座が東京大空襲で焼失し、1951年(昭和26年)の再建まで東劇が歌舞伎の拠点になっていた。一方、有楽町駅前「東京宝塚劇場」でも『ミカド』上演の記述がヒット。こっちはなんと、トニー谷がココ役で出演とあり、腰が抜けるほど驚いたでざんす。

 ※写真は庄野潤三著『サヴォイ・オペラ』。開いた頁左上に・・・癇癪持ちだが根は人情家のギルバート(左)と恋愛はするが一生結婚しなかったサリヴァン・・・の似顔絵が掲載されていた。


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