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猪瀬直樹『ミカドの肖像』(13)伊藤道郎 [『ミカドの肖像』]

 まずは猪瀬直樹『ミカドの肖像』の間違いを指摘。同書では長門美保歌劇研究所がアーニー・パイル劇場で『ミカド』を上演し、それが昭和21年8月14日のNHK第一放送でオンエアーと記す。これ、グチャグチャな間違い。何度も記すが長門美保らの『ミカド』初演は同年6月の「東劇」だが、それは著作権問題で「舞台稽古」の形で米兵夫人らに見せただけ。ゆえに8月のNHKオンエアーは、「アーニー・パイル劇場」の本国からオペラ歌手を呼んでの8月上演『ミカド』だろう。長門美保らは2年後の昭和23年1月29・30・31日の日比谷公会堂(当時の朝日新聞に劇評あり)、翌年には大阪でも公演。まっ、そんなことはどうでもいい。

 ここでビッグヒーロー登場! 「東劇」や「アーニー・パイル劇場」上演より19年も前、昭和2年(1927)にブロードウェイは「ロイヤル劇場」で、アメリカのスタッフ・出演者による『ミカド』を総指揮して大喝采を浴びた日本人がいた。それが世界的舞踊家・演出家の伊藤道郎(写真)。若い伊藤は坂本龍一に似て、白髪の伊藤は白洲次郎に似ている。

itoumitio1_1.jpg 彼は大正元年(1912)に19歳でドイツ留学。第一次大戦でロンドンへ。ここでモダンダンスを極め、作曲家ホルスト(あの『ジュピター』作曲者)が伊藤に捧ぐ『日本組曲』を創り、またウィリアム・バトラー・イェーツが伊藤とコラボレーションで戯曲『鷹の井戸』(西洋能)を創作。世界的評価を得て23歳で渡米。カーネギーホールに自分のスタジオを設け4千名余にダンスを教え、名実ともにアメリカ現代舞踊の先駆者の一人に。そして前述のブロードウェイで『ミカド』総指揮。彼のこと、ダンスシーンふんだんの『ミカド』と思われる。

 36歳でNYからハリウッドへ。ロスでも舞踊学校設立。昭和4年(1929)にローズボウルで野外ダンス「光のページェント」、その後にパナマウント映画「ブール―」出演。2万人収容の野外劇場「ハリウッドボール」で100名余のダンサーが踊る「プリンス・イゴール」、「美しく青きドナウ」を成功。しかし昭和16年(1941)12月の真珠湾攻撃の翌日に逮捕されて日系人収容所へ。1年9ヶ月後に捕虜交換船で帰国。この時、52歳。「東京宝塚劇場」接収で「アーニー・パイル劇場」の芸術監督に迎えられた。前回紹介の齋藤憐著には白髪になった伊藤道郎がダンサーに振付している写真が多数掲載されていた。

 ねっ、凄い人でしょ。 これは「アーニー・パイル劇場」をネット調べしていたら、「YouTube」の「宮本亜門が追跡!アメリカに夢を売った男 伊藤道郎」がヒットで、上記は同番組を観てのまとめ。テレビ番組投稿の著作権如何は承知せぬが、平成8年の中京テレビ制作番組。参考資料として齋藤憐の前回紹介本と、藤田富士男『伊藤道郎・世界を舞う』(新風舎文庫)、ヘレン・コールドウェル『伊藤道郎 人と芸術』(早川書房)がクレジットされていた。

 なお伊藤道郎は東京オリンピックの開会式、閉会式の演出をオファーされて張り切っていたが昭和36年(1961)11月に逝った。69歳。舞台美術の伊藤熹朔、俳優座主宰の千田是也の兄で、ジェリー伊藤の父。またジェリー伊藤の妻・花柳若菜は山口瞳の妹。


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