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猪瀬直樹『ミカドの肖像』(17)天皇毒殺とすり替り [『ミカドの肖像』]

oyatoi_1.jpg 昨今、新大久保コリアンタウンが騒がしい。日章旗・旭日旗(きょくじつき)のデモあり、「天皇制反対」のデモあり、それら怒号浴びつつ韓流熱中の女性たち。

 さて今回は、猪瀬直樹『ミカドの肖像』の孝明天皇毒殺説に参ろう。彼はこう肯定していた。・・・「明治天皇の父親孝明天皇が三十六歳で突如崩御したのは、慶応二年十二月二十五日のことである。死因は天然痘と発表されたが、岩倉具視ら討幕派により毒殺されたという噂が流布された。(中略)。アーネスト・サトウも、ディープスロートの証言から毒殺説を確信していた」と記し、()括りでこう追記。(筆者注―明治政府が刊行した公式記録<あたし注:『明治天皇紀』だろう>に毒殺説は見られない。そのことをもって毒殺説を否定する向きもあるが、それよりナマの証言のほうを採るべきだ。) そして、「明治天皇は、父親の死因に不信感を抱いていたと思う」。

 笠原英彦著『明治天皇』(中公新書、2006年刊)には、・・・王政復古派による毒殺の可能性も捨てがたいが、現在の史料だけからでは、悪性の天然痘に死因を求めるのが妥当かもしれない。この判断の方がクール。

 『ミカドの肖像』では、イタリア・ジェノバまで訪ねてキョッソーネさんを探る延々の記述があるも、キョッソーネさんの隣のお墓、グイド・フルベッキさんには微塵の言及なし。ここに梅渓昇著『お雇い外国人』(講談社学術文庫、2007年刊)より、「近代日本建設の父、フルベッキ」の概要・・・。

 ・・・オランダ、イギリス、フランス、ドイツ語堪能。安政6年(1859)来日。長崎で布教活動と併せ「斉美館」と「致遠館」で英語、政治、経済、理学を教えた。大隈重信、副島種臣、伊藤博文、大久保利通をはじめ、後に明治政府の高官、指導的人物になる多くの人を輩出。政府顧問になって東京へ。大隈重信に欧米遣外使節の健白書提出。2年後の明治4年に岩倉具視が同建白書に基づいて約50名の岩倉欧米視察団を率いて出発。フルベッキはその後、各専門のお雇い外国人が多数来日で、身をひいて宣教師へ。岩倉欧米使節団メンバーらが帰国後に「教育勅語」「大日本憲法」を発布。

tukurareta1_1.jpg その意では、フルベッキさんもまた『ミカド』に関係した人物なのだ。しかも「フルベッキ」でネット検索すると「フルベッキ写真」なるものが騒がしい。フルベッキ親子を囲む門弟44名の集合写真で、撮ったのは日本写真の開祖・上野種彦。その群像の中の一人が「明治天皇にすり替った大室寅之祐」だと、まことしやかに論じられている。

 孝明天皇が毒殺され、親王睦仁が明治天皇になった(『ミカドの肖像』)だが、江戸に来たのは(親王睦仁も殺害されて)すり替った「大室寅之祐」だと主張する裴富吉著『創られた天皇制』(同時代社、2009年刊、写真))も読んでみた。両著で頭が少々白くなったが、松本健一著『明治天皇という人』には、この辺は微塵の記述なく、あたしは笠原英彦『明治天皇』の説に落ち着くことにした。


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