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猪瀬直樹『ミカドの肖像』(18)「御真影」浸透 [『ミカドの肖像』]

gosinei1_1.jpg 前述の多木浩二著『天皇の肖像』(岩波新書)、みすず書房『続・現代史資料(8)教育~御真影と教育勅語』より、「御真影」普及の経緯をお勉強する。まずは、みすず書房の同書より佐藤秀夫「解説」をひく。

 ・・・「御真影」は、幕藩権力に替わる天皇制権力による統治体制成立の表象として、一八七〇年代以後、府県庁など地方長官、及び師団本部・軍艦など軍施設を皮切りに、政府関係諸機関に公布されていった。これは、新政府が天皇を頂点にいただく政府であることの証左を示すとともに、その新統治体制の発足を下僚及び国民に視覚を通じて確認させる「文明」的手段であったと考えられる。

 ちなみに日本のラジオ放送開始は大正14年(1925)。媒体は今の学級新聞的体裁の新聞だけ。その状況でよくもまぁ徹底普及したなぁと感心させられる。多木著では「御真影」は「下付」の形で普及とあり。あたしは下世話ゆえ「下つき」と読んだが、「かふ=上から民間へ下げる」の意。「交付」「下賜」だな。

 明治6年末から内田九一の写真が全府県に「下付」。徴兵制度も同年から。明治15年の「軍人勅諭」と共に軍隊へ「下付」。明治21年にキョッソリーネの絵を丸木利陽が撮影した「御真影」完成。明治22年に「大日本帝国憲法」制定。明治23年発布の「教育勅語」とともに全国の高等小学校へ「下付」。そして教職員および全生徒は学校の「ご本尊=御真影」に向かって拝礼。この「下付」は生徒⇒学校⇒郡⇒県⇒文部省⇒宮内省順の階層化も生んだとか。

 みすず書房の同書には、ミッションスクールの苦渋の「下賜」出願の経緯が紹介されていた。また明治21年には文部省が『紀元節の歌』『天長説歌』を学校唱歌として楽譜送付。

 キョッソリーナの絵は、もう一枚、銅板に刻んだ版画(立ち姿)もあって、彼が印刷寮退職後の明治26年に印刷完成で、これも「下付」。そのうちに天皇や皇后の肖像を描いた錦絵や石版画が多く刷られ、やがては新聞付録になるなどして日本の津々浦々まで普及。かくして日本人は「新統治体制」「天皇の臣民」になっていった。

sazareisi_1.jpg 子供時分の記憶だが、田舎に行くと、どの家にも「御真影」が飾ってあったような。遠い昔のようだが、先日の2月11日は「建国記念の日」。昔の「紀元節」。今も式典では『君が代』と、♪雲に聳ゆる高千穂の高根颪(おろし)に草も木も 靡(なび)き伏しけん大御代(おほみよ)を 仰ぐ今日こそ楽しけれ~ の『紀元節の歌』が斉唱されているとか。

 写真上はみすず書房の資料本口絵の「御真影」。写真下は明治神宮にあった『さざれ石』。


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