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猪瀬直樹『ミカドの肖像』(20)軍人勅諭 [『ミカドの肖像』]

gunjincyokuyu1_1.jpg 「五箇條の御誓文」の翌年、明治5年(1872)に「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」と書き出す福澤諭吉『学問のすゝめ』がベストセラー。9月、新橋~横浜間に鉄道開通で文明開化。明治6年、「徴兵令」。金で逃げられぬ平民・農民が服役。

 次第に世情が騒がしくなる。自由民権運動の盛り上がり。民権運動と兵力が結びつく危さ。明治10年「西南の役」を闘った近衛兵らが、翌年に待遇不満で決起。53名が銃殺刑。これらを踏まえて明治15年1月、「軍人勅諭」発布。

 ここで『お雇い外国人』を著した梅渓昇著『明治前期政治史の研究』(未来社、1963年刊)を読んでみる。・・・(近衛兵反乱に慄いた)政府首脳らは西周(あかね)起稿の「軍人訓戒」を発布(※正確には銃殺刑3日前に発布)。同訓戒は「軍人精神は古来より武士道の精神」と規定し、軍人の守るべき十八ヶ条を記述。しかし武士イデオロギーの中核は封建領主への「忠」ゆえ、天皇制にそぐわぬ。加えて盛り上がる自由民権運動にも対処すべく、明治藩閥首脳陣は日本軍隊を政治、議会から分離させ、天皇統治「プロシャ風君主制」にし、改めて「軍人勅諭」発布に至ったと記す。

 西周の「軍人訓戒」では、天皇は軍隊における「秩序の象徴」だったものが、こうして日本軍隊は「絶対君主制」へ。以下、全2700字の「軍人勅諭」を「原文」に口語文混じりで綴ってみる。

 「我國の軍隊は世々天皇の統治し給ふ所にそある」で始まり、皇位に就いて天下を治めてきたが「凡七百年の間武家の政治とはなりぬ」。わが祖先に背いて嘆かわしい事態だった。徳川幕府が衰えて、仁考天皇や孝明天皇を悩ませたが、朕が皇位継承して15年を経て現・陸海軍になった。「兵馬の大權は朕が統(す)ふる所なれは}(軍の大権は朕が統治するものぞ)、その運用は臣下に任せても「其大網は朕親(みずから)之を攬(と)り」(その大網は朕みずから掌握し)、臣下に委ねるものではない。「朕は汝等軍人の大元帥なるそ」。汝らが職分を守り、朕と心をひとつにするならばわが国の国威は世界に輝こう。そのためにここに訓戒する。

 ちょっと無理で強引な「歴史認識」を押し付け、軍人心得五箇条へ。「一 軍人は忠節を盡(つく)すを本分とすへし」「一 軍人は禮儀を正くすへし」「一 軍人は武勇を尚(とうと)ふへし」「一 軍人は信義を重んすへし」「一 軍人は質素を旨とすへし」。

 以下、私流解釈・・・。軍隊が「軍人勅諭」をもって「絶対君主制」になったことで、明治23年の「教育勅語」、「大日本帝国憲法」に至ったと言えなくもなしや。かくして「明治維新の精神」と評された「五箇條の御誓文」の民主主義はギアチャンジされた。

 それにしても「軍事勅諭」に影響を与えたという「近衛兵らの決起、53名銃殺刑とは?」。あたしはまた青山墓地に走ることになる。


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