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猪瀬直樹『ミカドの肖像』(21)近衛兵53名銃殺刑 [『ミカドの肖像』]

takebasijiken4_1.jpg 明治11年の近衛兵決起は「竹橋事件」。「軍人勅諭」に影響を与えた事件で、澤地久枝著『火がわが胸中にあり~忘れられた近衛兵士の叛乱 竹橋事件』(昭和53年に「野生時代」に一挙掲載後、角川書店から単行本後、角川文庫、文春文庫、今は岩波現代文庫)がある。

 同書を開けば、冒頭に青山墓地の「旧近衛鎮台砲兵之墓」顕彰碑・碑文が掲載。「行くしかないでしょ。いつ行く。今でしょう」とCF文句をつぶやきつつ三度の青山墓地へ。絵画館前の銀杏並木を抜け、青山通りを横断して青山墓地へ。左に行くと乃木将軍墓所、西周の墓、西南戦争警視隊墓地あり。今回は右の「外苑西通り」側へ。高台から道路際の窪地に、その墓(「合葬之墓」右の木に寄り添う小さな墓)と顕彰碑(右側)があった。「碑文」は長文ゆえ私流抄訳と同書のデータをひく。

 明治11年(1878)8月23日の「竹橋事件」殉難者鎮魂の碑なり。事件は西南戦争で命を拾った東京・竹橋の近衛砲兵大隊兵士を主力に、東京鎮台予備砲兵第一大隊、近衛歩兵第二連隊の同調者、将校や下士官の連座者を含む300余名が、待遇改善と明治維新後の政治不満を天皇直訴すべく決起した。

 叛乱は鎮圧され、同年10月15日、兵士53名が深川越中島で銃殺刑。青山墓地に埋められた。明治22年(1889)の帝国憲法発布の大赦で、56名の事件殉職者を祀る「旧近衛鎮台砲兵之墓」が埋葬地に建立された。同墓は第二次世界大戦末期の混乱で行方不明になるも、100年忌の昭和22年(1977)に現在地に移されているのが発見された。事件真相は明治政府に抹殺されていたが、今は全国的な研究と調査で、全容が明らかになろうとしている。

 当時の並定食30銭。兵卒の月給は数円。比して陸軍卿・山縣有朋は兼職給与含めて1400円の月給。西南戦争の死者6000千余名のほとんどが平民出身兵。大尉以上は勲章や御下賜金あるも、兵卒には財政圧迫だと僅かな日給や官給品も削られた。いつの世も為政者は保身・強欲で、庶民は命を削っている。

 山縣有朋は自由民権運動を弾圧し、後の大逆事件をおしすすめた。「日本軍閥の父」「官僚の父」となり、その金銭・名誉欲は異常執着とか。彼方此方に豪邸を持ち、あの目白・椿山荘もそのひとつ。国葬に「民」は一人も参列しなかったとか。また藩閥政府官僚らは伊藤博文をはじめ好色漢、実に多し。近衛兵らは彼らが日々花柳界(柳橋では相手にされず、主に新橋)で遊ぶ姿も眼にしていただろう。

tekesibaizoku1_1.jpg 貧しき農家らの惨状に決起した青年将校らの「2・26事件」も根は同じ。近衛兵には後の「秩父困民党」を生む地の出身者もいたりする。彼ら53名銃殺の3日前に「軍人訓戒」発布。「軍人勅諭」は4年後の明治15年1月。

 ドナルド・キーン著『明治天皇』には、同事件の記述は5行ほどで、三条実美の「一時の暴挙のために巡幸延期は朝廷の威光を損なう」で、天皇一行は8月30日に北陸東海両道巡幸に出発とあり。天皇帰京は11月9日。それまでに53名銃殺刑を済ませ、事件を封印したきらいあり。(写真下は碑の反対側にあった「竹橋事件 墓と碑の由来」。クリック拡大で読めます)。


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