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猪瀬直樹『ミカドの肖像』(22)大日本帝国憲法発布 [『ミカドの肖像』]

matuteno1_1.jpg あと数回でこのシリーズを終える。さて明治15年「軍人勅諭」の7年後、明治22年の「紀元節」に「大日本帝国憲法」発布。明治天皇38歳。東京市中に祝砲とどろく祝賀ムードだが、ドイツ医師ベルツさんは「(それなのに)誰も憲法の内容を知らぬ」と日記(未読)に記したとか。然もありなん。

 あたしが当時の下町長屋の熊さんなれば、チンプンカンプン間違いなし。だが戦後教育のあたしは、中学で現・日本国憲法 第一章 天皇 第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。・・・を教わった。

 明治22年の熊さんにはわからなかっただろう「大日本帝国憲法」の第一章/第一條は「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之(これ)ヲ統治ス」。第三條 「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」。第四條「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」。 全17條。天皇は陸海軍を支配し、その編成や人数を決め、勲章授与や大赦・減刑も決め、公務員の給料も決める・・・と、なにもかもが天皇大権。その頃、駿府で自転車乗りに熱中の徳川慶喜は、明治憲法をどう思っていたや。

 この辺をもう少しお勉強する。松本健一著『明治天皇という人』(写真)、笠原英彦著『明治天皇』(中公新書、2006年刊)、無学翁の助けに井上ひさし講座のまとめの岩波ブックレット『二つの憲法』(岩波書店、2011年刊)を教科書に、まずは憲法作成経緯から・・・。

 憲法の基本方針は①主権は国民 ②主権は君主と国民 ③主権は天皇・・・の三点(ドナルド・キーン『明治天皇』)だが、井上ひさしは原口清著『日本近代国家の形成』をひき、①黒田清など薩摩派の「絶対・専制君主制」。②大隈重信ら弱小藩派の「妥協しながら、やがては立憲君主制」。③伊藤博文、山縣有朋、井上毅ら長州派の「立憲君主制の形はとるが内容は絶対君主制」で議論白熱。

 埒明かず、明治15年に伊藤博文が憲法調査に訪欧。「皇帝制度で、かつ行政権力の権限が強いプロシャ型憲法が日本向きとし、ドイツからヘルマン・ロエスエさん(法学者で経済学者)を招いて(お雇い外国人)草案を作らせた。急いで国造りをするには③の天皇に絶対権力を与えつつ、藩閥閣僚の自分たちが一気に国造りをするがいいという判断だろう。(追記:古川隆久著『昭和天皇』14頁に、こんな記述あり。・・・伊藤博文は、民権派の急進論を抑えるために、こうした天皇観・国家観を憲法に採用した。しかし、それは天皇の絶対化、ひいては神格化による弊害をもたらした。

 ちなみに、王政に対する市民革命、フランス革命は18世紀末だった。当時の日本は化政期で市民・下級武士の手で豊かで円熟の文化が開花、いや爛熟した。それゆえの「寛政の改革」で恋川春町が死に、山東京伝が「手鎖50日」、蔦屋重三郎が「財産没収」、大田南畝が狂歌をやめて学問吟味の試験に挑戦。それほど豊かな文化を形成するパワーを持ち、かつその百年後の国民に、なぜに主権を委ねなかったか・・・。次回は内容を吟味してみる。


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