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日本橋川(21)「日本橋」慶長と明治の見聞 [日本橋川]

nihonbasihirosige1_1.jpg 史跡案内板から離れ、資料をひもとく。お馴染みになった三浦浄心著『慶長見聞集』より「日本橋 市をなす事」の章より。

 ・・・日本橋は慶長八癸卯の年、江戸町割の時分、新規に出来たり、その後此橋御再興は元和四年戌午の年なり。大川なりとて川中へ両方より石垣をつき出しかけ給ふ。敷板のうへ三十七間4尺5寸(約68㍍)、広さ四間五寸(約8㍍)なり。此橋におゐては昼夜二六時中諸人群をなしくびすをついて往還たゆる事なし。

 江戸町中で町人が渡れる最初の橋で、昼夜の区別なく大勢の人が往来した橋だと書いている。そしてこう続く。

 ・・・然るに件の日本橋にふみ入人、老若男女、尊きも賤きも、智者も愚者もをしなへて心正路にありて人よくわれもよく此橋を渡る事わたくしの智からにあるへかたす。橋は菩薩の尊形を表し給ふゆえだと書いている。皆さん、お行儀よく橋を渡っていて、誰もが日本橋を師として鏡として常にこゝろに懸おき、世を渡っていると書いている。まぁ、徳川への賛美文だな。

nipponnbasi1_1.jpg 次は『井上安治の色刷り明治東京名所』(角川書店刊)の木下龍也解説文をひくと、そんなきれいごとでは収まらぬ。・・・寛文二年(1662)の『江戸名所記』には、混雑のうちに帯を切られて刀や脇差を失ったり、巾着や手に持ったものをもぎ取られたり、たまたま犯人を見つけてもたちまち人ごみにまぎれ見失ったりした人たちがいた、と記している。ラッシュアワー並の混雑が伺える。そこには善い人も悪い人もいるってぇのが世の中ってぇものだろう。

 写真上の広重「日本橋雪晴」は、下流から俯瞰で見た日本橋。手前に魚河岸が、遠くに江戸城が描かれている。写真下の井上安治が描く「日本橋」は、同じく下流の江戸橋から見て、魚河岸より対岸の赤煉瓦の三菱七つ倉、その向こうの赤煉瓦造り洋風建築(明治15年竣工の日本橋電信支局)に焦点が当てられている。望む日本橋は石造り二蓮アーチ橋以前、明治六年(1873)五月竣工の「西洋風を以って、中に馬車道、左右に人道」の木橋。他に明治の『風俗画報』に描かれた山本松谷の「日本橋新年の景」は、橋正面から正月晴着の人々と、橋中央を初荷の日の丸をたなびかせた山車、鉄道馬車が描かれている。賑わってはいるがラッシュアワーというほどの混みようではない。


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