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日本橋川(22)「魚河岸」の芭蕉と杉風と其角 [日本橋川]

nipponnbasiuogasi1_1.jpg 次は「日本橋魚河岸」について。橋北詰に「魚河岸発祥の地」石碑あり。説明文を要約。・・・日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いは、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干物を荷揚げする「魚河岸」があった。日本橋川を利用して運搬された魚介類を、河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、表の店先の板(板舟)に魚を並べて売買を行った。大正十二年の関東大震災後に、現在の築地に移った。 当時の写真(上)が添えられていた。

 魚河岸の歴史は、魚問屋「尾寅」十三代目・尾村幸三郎著『日本橋魚河岸物語』(青蛙房刊)が詳しい。「魚河岸」は本船町がメインストリートで、本小田原町、按針町、長浜町。上記の「板舟」権利を有する者が商売できた。三浦按針(ウィリアム・アダムス)が住んでいて(現・按針通りに旧居跡の石碑あり)、英国の市場取引の方法を指導の説もある。

 同書は何年も前から高田馬場の古本市で眼にしてきたが、この機についに買ってしまった。私事ついでに、あたしは日本橋に行くたびに「はんぺん」好きかかぁに、「神茂」で土産を購う。「神茂」そばの佃煮屋「鮒佐」店先に、芭蕉の句碑あり。こう書かれている。

nihonbasiuogasi_1.jpg 松尾芭蕉は、寛文十二年(1672)二十九歳の時、故郷伊賀上野から江戸に出た。以後延宝八年(1680)までの八年間、ここ小田原町(現・室町一丁目)の小沢太郎兵衛(大舟町名主、芭蕉門人、俳号ト尺)の借家に住んだことが、尾張鳴海の庄屋下里知足の書いた俳人住所録によって知られている。

 これには諸説あり。芭蕉はト尺(ぼくせき)が京都から江戸に帰るのに同道して江戸に下ったが、住んだのは小田原町の淡水魚問屋・杉山杉風の「鯉屋」二階。『日本橋魚河岸』の著者は俳人ゆえ「魚河岸と俳句」の章を設けているが、ト尺への言及はなく、杉風や其角について詳細に記している。(写真上は句碑説明文に添えられた江戸時代の魚河岸の絵)

 嵐山光三郎『芭蕉紀行』(新潮文庫)にはこんな記述もある。・・・芭蕉が甥の桃印(二十歳)と妾の寿貞と暮らしていたが、桃印と寿貞が密通。妾とはいえ実質的な妻ゆえ密通死罪。それを隠すために杉風の深川の草案(養鯉場跡の番小屋)に移った。

 なお、其角は日本橋堀江町(江戸橋寄り)で医者竹下東順を父に、榎本氏を母に生れた。14歳にして才気発揮で芭蕉に認められて蕉門の首席をしめる高弟へ。池波正太郎は『江戸切絵図散歩』で、・・・宝井其角の家の跡に「其角」という料亭があって何度か行ったことがある、と記している。堀江町よりさらに西側が「元吉原」だ。「元吉原」より北の「油通町」には明治時代に長谷川時雨が生れ育って『旧聞日本橋』(岩波文庫)を著している。古地図で昔の町名を探りつつ江戸・明治に想いを馳せる愉しさは奥が深い。書き出したら止まらないので、ここで止める。


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