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日本橋川(23)伝馬町の松陰と時雨 [日本橋川]

denmacyourougoku2_1.jpg 日本橋は魚河岸散策から「傅馬町牢屋敷跡」に足を伸ばした。伊藤博文らによる天皇を軸にした「大帝国日本憲法」制定が、「松下村塾」吉田松陰の尊王思想からで、松陰終焉の地を見ようと思った次第。

 江戸っ子は薩長、明治維新嫌いだ。前述『日本橋魚河岸物語』にもこんな記述あり。・・・江戸三百年の伝統と歴史を薩長の田舎侍に踏みにじられてなるもんかと、魚河岸の精鋭千人余が竹槍、鳶口、包丁を武器に日本橋、江戸橋を一歩も渡さぬと覚悟した。

 江戸は、太田道灌から徳川の地で、天皇にはなじみが薄い。比して吉田松陰の家系は一条天皇に朝勤の藤原行成から出たそうで、子供時分から天皇詔勅や神官・玉田永教の『神国由来』を暗唱とか。根っからの「尊王」だ。加えて萩藩隣の島根は熊野大社、出雲大社など神話の里。京都も伊勢神社も近い。

syouinnhi_1.jpg 「傅馬町牢屋敷」は当時2618坪の広さだったが、今は小さな「十思公園」に江戸時代最初の「石町・時の鐘」、吉田松陰先生終焉之碑、江戸傅馬町牢屋敷跡の史跡があった。「時の鐘」は江戸九ヶ所のうち最古のもの。この鐘は傅馬町獄の処刑合図にもなってい、その日は遅れて鳴らしたために「情けの鐘」とも言われたとか。

 傅馬町牢屋敷は、明治8年に市ヶ谷囚獄ができるまで約270年も存続。入牢者は数十万人余。屋敷は広いが牢は90坪の狭さに4、500人も押し込める酷烈な環境。松陰はペリー艦船へ密航しようとして入牢。「安政の大獄」で再び入牢で処刑。終焉之碑は、公園の公衆便所脇なり。公園脇の大安楽寺に「江戸傅馬町処刑場跡」の碑あり。

 あたしは市ヶ谷・左内坂にオフィスを構えていたことがあって、同じく左内坂で『女人藝術』発行の長谷川時雨の著作を何冊か読んできた。彼女は日本橋油通町生まれで、幼き頃の日本橋を『旧聞日本橋』に綴っている。

 「牢屋の原」の章に、「父は転がり込んで来た金玉を、これは正当な所得ではないと返して貧乏した」と記す。父は首切り場の一画を「長谷川の名にしておけ」と言われたが、斬罪になる者の号泣を聞いているから、あんな場所は欲しくねぇ」と断った。その後「牢屋の原」は小屋がけの見世物で賑わったそうだが、日本橋は「土一升金一升」の地。母がいつも父に「もったいないことをした」とぐちっていたと書いていた。


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