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日本橋川(24)「江戸橋」の三菱倉庫とコレラ [日本橋川]

edobasi2_1.jpg 日本橋の下流、昭和通りに架かる「江戸橋」。橋上が「江戸橋ジャンクション」で都心環状線、1号上野線、6号向島線の合流で空を覆っている。橋、川好きには悲惨な光景なり。

 目下、橋南詰「江戸橋倉庫ビル」建替中。工事現場を囲む塀に、倉庫ビルの説明あり。・・・煉瓦造倉庫は三菱の創始者・岩崎彌太郎が、明治9年(1876)に蔵所を開設。明治13年(1880)仏人レスカス設計監理による煉瓦造2階建7棟が完成。関東大震災による飛び火で焼失。昭和5年(1930)、跡地に鉄筋コンクリート地下1階地上6階の「江戸橋倉庫ビル」に建替え。日本橋川をロンドンのテムズ川に見立て、外国航路の本船が船首を丸の内方向に向け停泊するモチーフとか。以来80年余が経過で三度の建替中。そして昔の煉瓦造倉庫の絵と、昭和5年建築の倉庫ビルの写真が添えられていた。

edobasimitubisisouko1_1_1.jpgedobasimitubisi2_1.jpg 昭和6年の航空写真を見ると「倉庫ビル」右岸際に、今は埋立てられた「楓川」が写っていた。「楓川」は江戸湾を埋立てた時の海岸線を残した水路で、昭和35年(1960)に埋立て。ここには「海賊橋」改め「海運橋」が架かっていた。そして絵は明治16年に三代広重が描いた『古今東京名所』の「江戸橋三菱の荷蔵」。

 また昔は左岸に「西掘割川」(昭和3年消滅)と、「思案橋」「親爺橋」が架かる「東堀留川」(昭和24年消滅)も合流していたが、これも埋立てられた。「思案橋」は吉原遊郭で遊ぶか、芝居小屋で遊ぶか思案したゆえの橋名とか。また江戸時代の木橋だった頃の「江戸橋」は、長谷川時雨『旧聞日本橋』の天保14年生まれの著者の故父・渓石深造が描いた「実見画録」よりの挿絵で見ることができる。

edobasikorera_1.jpg 挿絵題名は「虎列刺(コレラ)除のをはぎに橋上の行者と疱瘡神の送り」。コレラ流行時に牡丹餅(ぼたもち)を食せば罹らずで大繁盛の様子が描かれていた。また疱瘡に罹って全快したら桟俵(さんだわら)の上に赤飯を盛り幣束(へいそく)を添えて川岸または橋際へ置く風習、橋上の行者は掌に油を点して銭を貰うなり・・なども描かれていた。この絵を見ると当時の江戸橋大繁栄もまた長閑なり、と思った。


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